アウトプット

相手の視点に立ってみよう

人格とはフェティッシュであるか

 性格とは何か。あいつは優しいとか、他人の評価である。他人の評価を気にしないでモノを言う奴はいない。だから、全て偽装である。性格とは、嘘をつくことである。しかも、優しい嘘に違いない。だからこそ、嘘さえも愛するべきなのだ。その嘘が、私を愛していると告げているのならば。

 トランプがフェイクニュースと叫んでいる。彼は従来のアメリカの大統領とは違っている。品がないように見える。弱者である、ヒスパニック系に暴言を浴びせかける。彼の行為がもたらす心理的な負担は相当であろう。権威は必ず人間に影響を及ぼすからだ。たとえ、彼の言い分がおかしくても。だからこそ、反発があるのだ。議論よりもまず、教育の大切さを思うのだ。トランプが議論が成り立た合い。パワーがあるだけだ。しかし、それをパワーだと受け取る人間がいるからトランプは発言力を持つのだろう。相手を利しているのは、反対勢力である。トランプが民主党と喧嘩をしている間に、共和党は淡々と生きているのだ。共和党の議員は、トランプに自制を促しておけばいい。民主党は、フェイクニュースだと言わなくちゃならない。しかし、嘘をつくのは創造的な芸術作品である場合もある。小説は嘘である。しかし、それを享受する読者が多数存在する。フェイクニュースが真であるのか偽であるのかよりも、フェイクニュースを信じたいと言う気持ちが先行しているのだ。何も真実じゃなくても構わない。神様など見たこともないが、感じることができる。フェイクニュースだって、それは嘘かもしれないが、ヒスパニック系が治安を乱しアメリカを薬物漬けにしてしまう危険性があるかもしれない感じるのも難しいことではない。メキシコでは、麻薬カルテルが存在しているのだから。

 では、フェイクニュースについてどう反応すればいいのだろうか。トランプは嘘をいくらでもついて構わない。後から、訂正すればいい。しかし、新聞記者には嘘がつけない。彼らは、嘘がつけない代わりに真実の報道を心がけていると言うが、果たしてそうだろうか。真実は、報道において言葉で、映像で伝えられるのか。マスメディアがどうあるべきか私がここで書くような無駄はしたくない。興味がないからだ。

 したがって、興味がないことには口を挟まないように以後、自分に残された時間を大切に生きていこう。

 と、書きながらも自分という人間いついて興味がないので、私は私であることをやめることに抵抗を感じない。

 私心を捨て、宮沢賢治の「よく見聞きし分かりそして忘れず」の精神で、ぼんやり生きていこうと思う。あまり知恵を持ちすぎると、疲れるだけだ。疲れていたら、何もできない。何もできなければ、死んでいることとたいして変わりない。

 生きるために、のんびりするのだ。忙しいことが、褒められるべきかけなされるべきかについて、それは各人が勝手にすることだ。私が口を出すことではない。口を出して徒労に終わる無駄をして疲れたくない。