アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 僕はあまり自分の脳みそを信頼していない。僕の脳みそは空っぽだ。多分、萎縮しているんじゃないかと思う。病院に行ってMRIの検査をすればわかると思う。でも、脳みそが萎縮していても悲観することもないから、気にしないでいられる。

 社会性を失っていることを恐れて会話しない人がいる。変な人っていうのは、大概にして人間関係が希薄だから会話することもないので、変に常識に染まらずに物事を考えているから、常識の枠組みで生きる人間にとって聞きなれない奇妙な論説をして辟易するのである。私には到底理解できない人達が世の中にあるのだ。何が真理めいたものに興味を持たないという人達が。なんと、今を楽しく生きようという言説にあふれていることか。今を楽しく生きるためにはそれなりに工夫もいるのだ。もちろんかつては将来のためにあまりにも生き過ぎた。貯金することも将来の自分のためだ。そうすると、疑問が湧いてくる。では、私は一体いつまでこの金を貯めて暮らそうというのだ。そもそも貯金することが将来の楽しみだと思っていることにも気づくべきなのだが、常識では貯金はいいことなので何も疑わないのであるし、認めることが非常に難しいのだ。人間は自分に都合のいいように考え都合のいいように解釈する。

 善悪判断が最悪だ、しかし、なぜ善悪判断を用いるのかと考えてみれば、おそらく自分が何が良くて何がいいのかという基準を喪失しているからだろう。つまり、個人主義とは善悪判断を内面化したプロテスタント的な傾向を言ったのかもしれない。今の世相を見れば、本音主義が先行して思ったことはなんでも口にする方がよく、しかし、口だけで何も解決策になるようなことをしない不言実行の世の中である。口にするだけで十分に満足してしまい何もしないのだ。だから、政府に批判的な人がたくさんいるけれどもその政府がずっと居座り続けるのだ。

 つまり、口だけな人間が増えている。それならば、何も言わないで世の中に従って生きている死んだ人間の方がよほど誠実だ。しかし、死んでいることに変わりがない。また、誠実であることにカマかけて傲慢になってくる。だから、この世の中ではあまりにも相手に対しての優しさがかけてくるのだ。相手に優しくしないと自分が優しくされないのは当然の道理ではないか。仲間を作って内輪ネタで仲良く優しくしているからダメなのだ。それが日本人の伝統と吹聴しながら、これでいいのだと開き直っている姿に飽き飽きしている。日本のテレビは、作り手の狡猾さが良くわかるではないか。テレビは老人が見るから広告も老人向けに。若い女性が見るから化粧品のシーエムをバンバン流す。それでテレビは生きているんだから、たまったもんじゃない。面白いことってのがだいぶ相対的なものだってことに気づいたきたんじゃないかな。それとも、分化してしまったのかもわからないね。いろいろ面白いものを出し過ぎて客の好みができてしまったんだろう。大方客なんてバカなんだから面白さなんてわからないし、テレビの食レポ番組見てる自分のバカさ加減もわからないで生きているんだから。つまり、大事なのは味じゃなくて雰囲気だね。霞を食べて生きるのがテレビを見ている人間のやっていること。つまり、視聴者は仙人だね。

 言いたいことなんてこれっぽっちもないんだよ。それが怖いんだ。世の人は何か不満顔で生きている。笑顔なんて見たことがない。でも、一番恐ろしいのは自分だね。俺が一番笑顔殺して生きているんだ。俺には彼女がいなければまともに笑うこともできない。それでいいのか?自分だけが損をしないように生きたってしょうがないだろ。僕はこれ以上本当に何もいうことがないのだ。各々が好きなように生きればいい。その代わりに孤立してしまっても構わない。それだけの度胸があればいいだけの話だ。孤独を恐れてはならない。孤独だと思うこともないのだが何故だろう。人々は皆孤独ではないか。誰かと話をしてなんと気の合わないことだろうと思って家に帰った時、過ごした休日の虚しさを思って泣いてしまいそうだ。人間は互いに理解し合えない。理解した縁をして生きているのだ。しかし、相手に対して多少なりとも作った仮面が全くもって役に立たない仮面だとしたら困惑するのだ。仮面を脱ぐことは決してできない。無理だ。自分を滅する。それが私にできるだろうか。それだけが私にできそうな唯一のことであるように感じられなくもないのだ。