アウトプット

相手の視点に立ってみよう

結局はニュース記事がなければ何にも書くことがないんだろう

 なんで人は人を殺すような道具を作るようになったのか。ってな問いが、古墳資料館にあった。何故だろうか。何故人は人を殺すのか。実に不思議だ。自分に都合の悪いことがあれば殺す。都合とはなんだろう。自分にとって居心地の悪い環境を作らないために殺す。そうだとしても、居心地の悪さを作り出しているのは当人の頭の中だ。自分を見つめるべきだとも言える。自分の頭の中で無意識的に行われる諸動作がもたらす感情的な帰結に気づくことが治療とも思えるほどだ。毎日顔を洗いタオルで水滴を奪う際に、適当にタオルを顔に当てるのと心を込めて顔に当てるのとでは大違いだ。毎日殺人強盗詐欺等のニュースを見てこれは悪いことであるという御触書を出しているニュースも、そればっかり見ている人間も、公園の注意書きの掲示板前に張り出された、警告書および約束違反者を名前を乗せた張り紙がいつくるのか楽しみにしているのと変わりない。美しいものに触れるべきだ。いかにも、茨城で女を殺した男は醜かった。男ばっかりが殺人を犯しているような気がしてならない。ニュースでさえ、女向けが多いから女の殺人はあまり報道されないが確実にあるはずなのだ。しかし、顔が出ることはない。永遠に女は、鏡の前で自分の顔と出会うことはなく周囲の空気によって歪められた顔でしか顔を存在し続けることができない。女の化粧は現実に対する虚構の優位性を示しているのだ。そして、現実とは虚構により成り立っているという暴露の元に女の化粧は剥がれていく。現代日本の抱える問題などと銘打って昔から話題になるモラルだが、モラルは鏡であり人間の認知を歪め続けながら正常であり続けるという中毒性に手を染めている限り平穏は訪れないように感じられる。平穏に価値があるかのように書いたが、私にはそれすら断言することを避けたいのだ。多様性とは、もしかしたら、寂滅の静寂に養われるのかもしれない。しかし、孤独を避けたいので集団的になり会話も話題も昔の思い出話になった時に私は閉口する。居酒屋でまだ年の若い連中が福岡弁で界隈sて同窓会さながらなご様子なのを見ると、若い人間も老人も同じようなことしか話題にできないことに強烈なあくびが出るほどだ。あまり人のことを悪くいうもんじゃない。私は他人の存在を肯定しない。他人は私が折り合いをつけないでいる存在である。勝手気儘を許しているのが私にとっての他人だ。彼らが何をしようと今のところは沈黙して悠然と眺めていられるが、私に関わってくる時に社会の伝統と言って浅はかな行事を押し付けてくる時は、それらを超えられるような人間になりたい。対立ではなく、超えたいのだ。人間の真意を見る時にそれがいかにチンケで取るに足りないとしても愛おしい。何か謎めいたことを言うのが真意だという考えにはサヨナラを言いたい。さよならを言ってもすぐにまた会うことになるであろうと、頭の片隅では考えてもいる。とにかく、自体は一刻も争わないのだ。私は世界が要求するように世界を見ている。以前の私は世界の要求をまったく顧みずに世界を見ていた。親孝行をしろというのは、親孝行をしない人間がたくさんおり、親は子供に育ててやった恩を売っているのかと考え、無常の愛でそれをはねつけても、親孝行は人々の口上になんの配慮もなく配置された録音テープのように繰り返し繰りかえし叫ばれる。いわば人間は言葉を真似することでしか、意見を述べることなどできないのだ。様々な前提や原則を忠実に犯すことなく意見を構成することで一定のオリジナル性を担保できるが、時間がなければ誰かのを借りてそれを鎧のように纏って敵地に向かい暴言を吐いて帰ってくるという言説状のサバイバルゲームツイッター等で展開されている様子を見るにつけて喧嘩するほど仲が良いという使い古された文句の効力を知るのだ。たとえ本人がそれを否定したとしても、仲がいいというのは常に互いに関わり合うことで構成される何者かい同化した自己(何者か)を愛撫する点において強く結びつきあい、相寄って存在する両者であると思わずにはいられない。私は世界に興味がない、私は世界というものを見るのをやめた。世界は私に何も教えてはくれない。世界はただ、世界を虚妄する人々の突き動かされた活動で生じる事実に過ぎない。人間は原始時代を終え自然の脅威から逃れたが、人間社会の排除のルールが自然の脅威に取って代わり保険だとか、年金だとか、福祉だとかを作り出すきっかけになったのであろうと想像する。原始時代の住居が身を守るための安全地帯であるならば、今日においては制度に安住することがそれと符合するような気がする。結局は、原始時代と対して変わらない生活を私たちはしているのだ。彼らの記憶力は明らかに強烈であったはずだ。槍を持ち敵の行動パターンを認識して応用し殺して食べる。テレビゲームで銃を持ち相手を殺す。冬は寒いので外壁を作り屋根を乗せ動物の毛皮を剥いで衣服にする。全て交換されるべき価値であるから、貨幣が必要で、貨幣を守るために銀行に預けまた自らの保護を制度に求める。制度の要求を国家という制度に求める制度の構築が福祉であろう。福祉は制度を変更する力を持つかもしれない。しかし、制度に安住するのは嫌いだ。知識を放棄し制度の安堵感の中腹も満たせないゲームで狩猟感覚を満足させるような虚構に熱中する行為に血が宿っているように思えないからだ。一番いいのは自らが模範になることであろう。自らが自らの理想となる時に、その理想の内容も審議の対象にはなるが、その時に自己は自己の理想と合致して偉そうになり勘違いして間違いを犯しても跳ね返す厚顔無恥を手に入れるのだ。その自己と、自己の理想の一体化は世界を自らのものとし押し付けがましい説教と度を超えた共感を弱者に向けることをそのものにさせるであろう。その真実性は問わない。なぜならば真実であるから。ただ、付き合いたいかと問われればめんどくさい。それだけのことだ。