アウトプット

相手の視点に立ってみよう

This is America

 見てて清々しかった。血の出ない生産の事件が毎年起こっているけれどすぐに忘れるような時代だ。自分が死んだとしても何も思わないのだろう。それならば毎日をかけがえのない1日だと信じないから顔も必然死んだような顔になってくるのである。タイから帰った後電車に乗っているサラリーマンの顔を見なくとも漂う雰囲気は静寂の中を自らを押し殺すことばかり学んできた人間たちの漂わす無機質な空気だった。私はそこで日本に帰ってきたのだと実感したくはなかった。しかし、それが日本だ。憧れの裏では凄惨な事件が起こっておりそれに目を向けないで生きている限り不安は心から離れることはないだろう。だから、軽快な音楽と甘いマスクのイケメンを画面で踊らせておけば一時を忘れることができる。不安であるからこそ衝撃的な事件を完全に守られて家の中でテレビを通してみることにより安堵感を覚え安心するのだ。十射殺でアメリカは衝撃的な事件が度々起こる国になり、アメリカ国民の大半の生活者は貧乏を強いられていることを嫌が応にも知ることになる。繁栄は今中国にあり、結局は今だけを見れば中国なしに世界は何もものを作ることができないのだ。ものを作らなくなった国は破滅するというが、どうだろうか。私は国がなくなっても一向に構わない。国がどれだけ人間を分断しているのかについて知るいい機会だとさえ思っている。人間はシステムに依存することで対面式の会話を喪失し人間が近くにいる喜びを失いついには疎ましくなった。人間が本来あるべき姿を追求してもしょうがない。ただ、誰とも喋らない人たちを見ると異様なのだ。アメリカだとかはすぐに話しかけるのだろう。私はアメリカに行ったことがないからよくわからない。ハワイに行った時は、じっと見ていたら笑顔でウィンクを返されたのをよく覚えている。日本は異様な国だ。挨拶が大事。ここで日本とアメリカを比較しても始まらない。自分の説など何も持っちゃいない。ただ、体で経験したことだけに限定して書いてみるほか私が確証を持ってここに書くだけの理由や根拠がないのである。想像でものを書くには根拠などいらないから気が楽であるということに甘んじて私もそろそろ根拠を提出して根拠に振り回され結局本質を見失う自体を避けたくてしょうがないのだ。根拠と言われるものが何を意味しているのかを吟味する必要があるのではないかと思われる。殺人犯の家から被害者の血痕が見つかったとしても、完全なる証拠ではない。誰かが殺人犯の家で被害者を殺して冤罪を被ろうとしているのかもしれない。常識的には、つまり確率的には、つまり多くの人間が思考のバイアスによってそのようなことはないと考えているところにアガサクリスティーが仕掛けをすれば、私たちの認識は揉みほぐされ自由を感じることができるのではないかと思うのである。それだけ、私たちの認識はそれを支える根拠の脆弱者を暴露されない限り疑わずに何もかも常識てであると感動することもなく、死んだように生きる人間が多すぎるのだ。