アウトプット

相手の視点に立ってみよう

わざわざいわなくていいこと

 このブログのタイトルはアウトプットであるが、何でもかんでも書いてみたところで得られる収穫は思いの外少ないのだ。なんでも書いてしまうと、結局は言葉を修飾する機会を失って単純な言葉に変換しなくちゃならない。「くそ」だとか「しね」だとか「ばか」だとか、自分の気持ちをこれらの言葉に託すのは貧しいことだ。様々な言い方を身につける方がいい理由について私は考えてみたけれども、使い始めは楽しい短い罵り言葉もそのうち飽きてしまってなぜ、自分は不愉快な気持ちなのかというのを自ら探求する場面において全くもって言葉に対して注意を払わないとすると、やっつけにただ罵ることしかできなくなってしまう。言葉が汚い人を見ると、彼彼女らが自らにいかに甘く他者に対しては汚い汚物を見せることを快感にしている糞尿垂れ流しの人間であるのかがよくわかる。礼儀は嫌いであるけれども、礼儀があるからこそリラックスできるのだという逆説が私の頭の中にふと浮かんだ。もしかすれば、私たちはリラックスするために異常な緊張感を我々の精神や肉体に強いることで、それらリラックスを快感として受け取っているのではないかと思うのである。ICU症候群では何も刺激を与えられない人間は自ら痛みを作り出すという。それが嘘か真実かわからないけれども、人間は常に何か刺激を受けていなくては気が済まないようにできているのだろう。それがなぜなのかという研究について科学は何かしら答えを出すことができるのかと疑問である。明確な人間の意思に基づく理由は揺らぐので、科学的だとは言えない。ただ、傾向としては理由を見つけ出すことができるかもしれないが、見つけたところで人間は再び自らの悩みを自ら考えることをやめて科学の平均化された抽象的な理由を自らの悩みの理由だと思いなして自らに嘘をつき続ける。