アウトプット

相手の視点に立ってみよう

電車で読んだランボー 小林秀雄

 今でも思い出すのは、ランボーを読みながら流れていく茶色い畑の風景だ。あの時僕は、鹿児島行きの電車に乗っていた。静かな車内で僕は寸分の時間ももったいないというはやる気持ちで、本を数冊携帯していた。そこで読んだのがランボーだった。小林秀雄が訳していたのは偶然であった。それから、その年はよく小林秀雄を読んだ。今でもよく読んでいる。彼がいなければ、僕はどうなっていただろうか。もしくは、小林の他にまた誰か陶酔する人を見つけるのだろうか。僕は一体誰に従って生きていけばいいのか。頭の中がいまだに江戸時代である。

 ランボーを読んでいてこれは判っちゃいけない本だと思った。これを理解してしまっては今まで大事にしていた干からびた何かが失われてしまう。血の通っていない思い出が全て嘘になって消えてしまうと。ランボーのような言葉を間に受けて生きたらすぐに人生に殺されてしまうだろうと考えた。僕はのうのうと人生に生かされている。それはほぼ強制労働と言わんばかりだ。眠れない夜にスマホがなければその静寂さに耐えきれないのは、自分の心の声を聞き入れたくないからなのだ。そんな考えがふと思い浮かんだけれども何も私は動こうとはしない。

 「自分が静かであると周りの風景がよく見える」

 これは忘れずに明日起きたら書こうと思っていた何かしらの警句であるが、他にも色々あった。また思い出したら書くことにしよう。僕は自分を殺すことと虚心に変えることの違いを自分自身に納得させようと思っている。私自身自分を殺すくらいなら死んでやると観念的にはそうおもっている。また肉体的にも拘束されることに非常なストレスを感じるのだ。どれだけ今の自分が拘束されていないのかを考えると不思議なくらいにこの自由な空間の中でもがきながら苦しんでいることをまざまざと知らされる。苦しみが不幸であるかは知らないが、不幸になるには相手と自分を比べればいいだけの話なのだ。相手と自分を比べてしまう。比べる。そうすると私は一気に不幸になれる。テレビの中の俳優を見て美男で羨ましいと考える時不幸になる。だから究極テレビは見ない方がいいのではないだろうかと思うのだけれども、静寂の中湧き出てくる自分と対面したくはないので私はテレビをつけて意識をそちらに回し自分の本音とやらを抹殺している。私を殺すのは私で十分だ。虚心になることで現実を離れることができる。現実とは、誰も疑わないということで成り立っているのだ。だから、形式が要求されるのである。形式に準じない人間はおかしなやつだ。個人をどう回収するのかによって在り方は変わるのだろう。ただ、どうすれば私は現実という強力な仮面を引き離すだけの腕力を発揮できるのかだけを考えている。現実とは、嘘の上に嘘ではないという嘘を付け加えて成り立つ世界だ。偽りの笑顔が本物の笑顔と見間違うような人たちの純粋さと、現実の仮面に慣れ親しんだ人の現実を疑わず仮面である現実を忘れ去った人たちは非常に似て見えるけれども、全く違った人間たちなのだ。

 ランボー、地獄の季節、小林秀雄、これだけ揃えばいい酒が飲めるのだろう。今日は久しぶりに酒でも飲みたいな。酒は本当に美味しいんだが、体の調子が良くないので飲みたくないのだ。体の調子が良くないと感じるけれどもそれを医学的にどうこうしようとは思わないところだ。医者の考え出した病名だけ病気があるのだけれども、私はそのどれでもないのかもしれない。何かレッテルがあればいいのだが、何もレッテルがないと何を話せばいいのかわからないので暇をもてあます。