アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ぶっ飛んだ時代

 今考えれば、アメリカの大統領が馬鹿だというのはすごく励みになる。メキシコとの間に壁を作ろうなんて思いつきが面白すぎる。やれるものならやってみなという声が聞こえるかと思えば、人種差別だとかそういう話が大好きな連中をさらに長くその話に引きずり込む教育的な効果を上げているのだからやはりトランプは”つかえる”。結局壁がどうなったのか知らないし知ろうとも思わないが、別段メキシコ人は壁を打ちやぶてベルリンの次に壁と対決した国民としてテレビに祭り上げられる日が近いとも思われない。つまりどうでもいいことを政治家がやろうとするところに真髄があって、仕事の大部分はどうでもいい気配りからなっているのだ。そんなどうでもいいことばかりして互いに自分でできることを押し付けあってみんなと仲良く暮らさなくちゃ人は一人では生きてはいけないと甘ったれたようなことを言っている連中が、金という切り札を武器に周囲に無駄なことを代行させて自分は金を使うことしかしないで生きているのだから素晴らしい世界だ。別段この世がどうなっても構わないし仏教的に切って見せれば全ては幻なのであるから、そこを唯脳論と結びつけて逃げ出しても間違いではないはずだ。ただ、見えるものを見えないというとこいつは頭がいかれていると思われても仕方がないと思い込むくらい世間には馬鹿が大勢のさばっているのだと淡い期待をしていなくちゃやりきれないんだ。いくら休日があってもそれをうまく消費できないのはユノうろん、つまり脳みそがそれを楽しく過ごそうと考えていないからなのだ言えるかもしれない。自由な脳みそがあればそれは幻想を見せてくれるだろうし、幻想はヘロインによって制限を突破して気持ちの良いもので周囲を覆ってしまうのだろう。問題はそれがきれたとき州の夾雑物に耐えきれない脳みそが出来上がっているということだ。いずれにせよ脳みそは夾雑物なしには制限的な力を行使して抑制し暴走から脳溢血を防止することができないようになっているのかもしれない。大事なのは幻想であってもいいから見ることでそれが幻想であっても見るぶんにはちっとも構わないのだ。実存しているようして田舎ラオウがどうだっていいのに人は、実存が何ちゃらとフランス現代思想が何ちゃらとおしゃべりしまくることで、ああでもない香でもないという構造乗りとこになり永遠のモラトリアムの決定不能という運命を背負う責任から逃れようと必死に自らの作り出した人生設計なる幻想の中のさらなる脆い企画書を信じているのだからよほど、無宗教な奴らの方がくだらない説教でやり込められ金を毟り取られることは少なくもないのだ。脳みその中にしかないというのなら、全ての触角とそれを統合する力は脳みそにあるということになる。考えてみれば、私の動き一つ一つが雑になるときに脳みそは働いているように思われないのだ。神は細部に宿るというからやはり細々した動きにも神経を感じていなくちゃ脳みそはボケてしまう。荒々しい性格人間が不器用さの魅力を保持しているのはあまりにも神経が図太いのでみている側の神経が反応してその存在を主張し始めるからなのだろう。そういえば神経なるものの存在を忘れちゃいませんかと、こうくるわけだが何れにせよ人間をいかなる人間であるのか判断する罠に陥れば私は現代人も近代人も中世人も古代人も区別して考えることに抵抗がある。時代を区別して人間が変わったという説得力を持たせるのは非常に簡単だけれども、時代の流行で変化するような人間の性格しか見ていないようなマーケティングを毎日死ぬまで仕事としてやり続けることに虚しさを重べない人間はすこぶる幸せな人種であると差別的な気持ちを持って挑みはするがどうしても、そこに皮肉を込めたい気持ちが優ってしまう。人間なんてちっとも知らなくてもいいが数字を扱えるようになれば説得力が増すそれで儲かるという話だ。儲かりはするだろうけれども、それは数字の外の物象にはちっとも関わり合わないというお約束の上での話に過ぎないことを数学が教えてくれる。要するにあるものだけで十分なのにそれ以上のことを要求するから結局何も得られずに終わってしまうのではなかろうか。コンコンと湧き出す泉が女だという話を市ヶ谷の駐屯地でかっp区自殺したのちに仲間に首を切り落とさせた方がおっしゃっていたけれども、私たちは最低な夢を見て最悪な気分になっても決してその日を最悪な気分で過ごすくらいの強い刺激と現実性を夢が具有していないことをただ安心するだけの合理的な考えだけは保有している。男性は女性をコントロールできる範囲にとどめておけるというのが幸せであり、男子絵は刺激を得るのに必ず自らのコントロールの元に置きたいのだからそれがコントロール不能に陥ると不安になったり逃げ出したりけつの穴を開いて見せたりといろんな現象を表すことがある。それを見ていて面白いとも悲しいともむなしいとも思わない。ただ、曇り空の下にコンクリートが続く世界がそこにはある。世界の虚飾性に気づいた人間んはむなしい。虚飾であると気づいたときにすでにコンクリートの無機質な硬質を見て取っているからだ。いちばんのまじないは思い込みであると、男性遍歴でなおなした作家が強く文章に書き表していたのを思い出す。けつの穴と書いたことを今すごく不安におmっているのだけれどもそれよりも私は何かができる、やればできると思い込む方がいいのであって、数学の天才だ、私にはわかると言い続けなくちゃ数学なんてちっともできるようにはならないのだ。できるというときに、他人よりというのを付け加えるから皆不幸になるのだ。比べた瞬間不幸になるということはつまり、他人の存在がすでに不幸なのである。しかし、不幸は必ず幸福を一緒に抱き合わせで私たちに販売してくれるから幸福になりたいのなら他人が必要なのだ。つまり、幸福は他人から不幸を買い取り自ら幸福を日曜大工並みに成り行き任せに見つけたりそれを君立てたりしてできる一種の創作であると考えられはしないだろうか。完成した作品を周囲にインスタグラムで見せつけ幸福の設計図を披瀝するのも対して悪さを感じない理由もそこにあるのではないだろうか。寡黙な人でも食べんな狼を見つけることができはしないだろうか。常々そういうことばかり考えているので疲れてきた。今日はこの辺にしてどうでもいい話をやめにしよう。