アウトプット

相手の視点に立ってみよう

江戸時代という退屈

 やはり戦争がない平和に耐えきれないのが人間なのだろうか。善悪の問題ではない。人間は争いを好むのである。笑いながら怒る人が怖いように、平和なのに自殺がなくならないことは恐怖であろう。裏に隠されて真実があるような気もしてくるだろう。平和であることは悪いことを表に出さないというだけなのだろうかという問いさえ生まれてくる。問うことが大事だというが、誰も問いを立て良いとは思わない。疑問は無知をさらけ出す悪手であると思われている。無知の知なる言葉の響きも消えてしまった。嘘をつきまくり自らを保身して他人の無知に漬け込みマウンティングを図る。偏差値教育も末期の症状を現してきた。日本が一番だという価値観だけを残してある世代は消える。プライドだけが相対的に肥大化していき自己認識に耐えきれなくなる。そして、日本が一番だという安易な番組制作に走り芸術は消費される。実体がないから気が楽だが無機質な時間だけが流れ気がついたら老婆である。

 日本という国は仮想敵国がなければ団結しない。宗教心もないので、家族の習慣が宗教であったがそれもモナド化した個人に切り分けされ無名の個人がつながりあい習慣はいずれ絆に置き換わり義理人情のメキシコのような無残な党派争いをむき出しに街が出現するのも、荒廃するのもアニメ「AKIRA」に描かれたように、そう遠くはない時期に起こり売るだろうと思われる。

 第一に、日本人は魂に実態を求めない。思い出話にもそれを認めない。思い出の形にこだわり、記憶は編集される。ありのままを決して認めない。認めればパンドラの箱が開き行き詰まった閉塞感を肌て感じなくちゃならない。今は好景気らしい。人々の顔も明るい方だ。笑っていれば首から下がなくなっていても平和である。

 何をすべきかという論理が日本人にはない。日本人ということだけが取り柄の人間が増える。知らない人たちに心理的なアプローチをするよりも、君も俺も日本人だと言った方が早い。日本人とそれ以外を分ける発想が自閉的でもある。「日本」という言葉の裏側には「外国」に対する意識がある。あったこともない韓国人を非難する滑稽さを笑うことはできない。そこに、自らは決して認めないであろう神話性がある。アメリカは自由であるという神話。韓国人は嘘つきだという神話。噂話の大好きな日本人は架空の世界を生きて今日も過ぎていく。JPOPの歌詞から比喩が消えたように、気持ちを直接いう「嘘」を生きなくてはならない。英語は歌であるが、日本語は絵である。優しい言葉がそのまま優しい姿になるのが日本である。しかし、英語は優しい言葉に優しい声色、仕草、表情がなければただの物音でしかない。

 今は時代を掴めない。時代がないからだ。時代を川の流れだと思えば、いい。戦時中も、戦後も、戦前も大して人間は変わらない。古代も現代もだ。違いを見つけることは差別である。同じを見つけるのが平和である。古代人は同じを見つけるのが上手だという。熊と人間に距離感はなかった。私たちは皆妖怪である。個人主義は妖怪の時代だ。特性を持った者たちが特性をあらわにして街を歩いた。しかし、個人主義も廃れ今は全体主義だ。特性は居場所をすでに与えられ部分的な共同体を形成し党派的対立へと向かう。絆でもいい正義でもいい。ただ、個人で考える人が死んだ。個人は死んだのだ。殺人犯は大衆である。金にモノを言わせていたら不景気になり一気に大衆化した。大衆の中で個人の感性は行き場を失い雑魚寝で身動きが取れなくなり自殺する。自殺の元をだ取れば自己を無条件には受け入れられない偏狭さに身を置いた失敗である。日本人は視野が狭いので新しいことが嫌いだ。しかし、トレンドというパッケージに包めば新しいことを受け入れる。儀式である。野生の思考はどこへ言ったのだろうか。私たちは知らないうちに思想警察を作り上げ自らを律していくためにおかしな考えと言われる考えを取り締まりの対象にした。それを自らのみならず他者にも振り向け監視社会が成立した。私は見ないふりをして相手に自由を与える。しかし、相手は私をあげつらい私を批判し私の行動を改めさせ監視社会に仲間入りさせようとする。そこでは、自由は飲み会の席での愚痴を発現できる権利として大衆に認められている。民主主義とは、あるべき姿を想像するのではなかったのか。もはや、大衆の鬱憤を全体的に承認させ自己承認欲求を満たす手続き的な儀式で自らを保身を確認する作業でしかない民主主義が、本来の民主主義であるわけもなく少数者の意見を聞く大事な機会を失って自らが自らに課題を課すこともせず農耕民族らしく与えられた仕事を手抜き工事し金をぶんどる倫理からの逃避が現代日本で起こっている院政であることに対抗する手段もない。

 世界という時、日本人はアメリカと韓国だと思う。そんなはずがないのは承知していてもフランス語を話す人がどれだけいるのか。英語を公用語だと信じて英語ができればどこへでもいけるという人間は安心を求めているだけで、英語はできなくても海外にはいけるのだ。そもそも海外もおかしい。自らの日本でのポジションを外国に求めるのもまた醜い。

 優しさとは何かを考えてみてほしい。見返りを求めない、見返りさえ考えない、もはや宗教的な優しさである。宗教心がないので慣習に走り、慣習が腐敗した場合宗教心が求められる。人間性が歌われたのも戦後だ。人間がむごたらしい要するを克明に記録したジャーナリズムは私たちに認識を変えた。しかし、それに反抗し、浅はかな認識を持つに至る。最も深いのは、やはり差別的な視点でしかなかったのだ。メディアはメッセージである。戦争で民間人が死んだというニュースは、戦争はいけないという論調よりもちゃんと的を識別してやれというメッセージに受け取るものが増えた。これは歪んでいる。人を公然と殺すことができるのが自然状態であるとすれば、平和は歪んでいる状態なのだ。倫理観が問われ続けるのも我々は平和を望むが、平和の退屈さに耐えきれないからだ。戦争の代理としてスポーツをし、議論を盛り上げ、仲間になる。日本が原爆を落とされ、アメリカと友好的であるのとおんなじだ。もっと言えば、自らの妻子を殺した相手と友情を結ぶには、妻子が夫にとって邪魔な存在でなくてはならない。今の状態はアメリカに幻想を見て日本を軍部から救ってくれたという大衆の物語であるが、実際のところはその物語的な認識は大衆の作り上げた幻想であり、それを維持するために敵であったアメリカは今、日本人の最大のお友達なのだ。結構なことである。日本だとかアメリカだとか馬鹿のたわごとみたいに抽象的な議論をいつまでも際限なくおしゃべりして、善悪と好悪の価値基準が混在し、心は歪み渋いお茶の味がする。