アウトプット

相手の視点に立ってみよう

グレーな枠

 論理の飛躍がある。言葉が足りない。言葉が足りないと思考は直線的になる。それは心情になるが、宗教的な経験ではない。論理的に相手を言葉の持つ力に己の憎悪を込めて気を晴らす人がいる。そのような人には近づかないほうがいい。相手は論理を持ち出す。論理は脆弱だ。そもそも論理的だと己が宣言すれば、「まあそういう考え方もありますわな」と言った程度で済ませればいいものを、どうだどうだ、俺のいう通りだろうとくる。特に顔が見えないコミュニケーションだと言葉は過激になりやすい。国家を語るのも同じだ。国がどうあるべきかを考える夢想家は今日もなおあとを絶たない。彼らに違和感を感じるのは、国家観を疑いもしないところだ。同じ価値観を持っている相手かどうかを見極め、無害な人物か査定しているのだ。何様だろうと思う。それくらいの考えと判断しか持ち合わせていないんだから、物の道理が分かるはずがない。物の道理の分からぬ人に、国家について何かしら思うことがあるのだろうか。人の気持ちもわからず自分もわからないから、国家という一見明白そうな観念に飛びつくのだろう。それは価値観の安定を国家がもたらしてくれている感覚を持っているからだろう。実際に、人間はそうそう悪い人ばかりではない。見せしめにショービジネスを行い、次の選挙で勝とうとしこたまネタを用意していい顔してれば悪いことはない。だから、笑っているのだ。その笑いは、なんの含みのない損得の笑いだ。