アウトプット

相手の視点に立ってみよう

批判

 誰かを批判する気がなくなってきた。批判は相手を何も変えない。自分の意見に従わせるだけの話だ。自分と同じ意見の人が増えたら世のなか大変だと思う。なぜなら、私は知識がないし何も知らないから。だから、知っている人がいてくれたらそれで素晴らしい。そして、知っているふりをしていても構わない。その人たちが、知っている妄想に駆られて生きているのをわざわざぶち壊して文句を言い自分がまともであると周囲に吹聴したところでいいことなどおよそ何もない。たとえ、周囲が私に同調してくれても批判された当の本人は私に復讐の念を燃やすことになるなら私は何も言わないでおこうと思う。沈黙には意味がないのだろうかと考えると、沈黙は素晴らしいとどこかで感じている自分もいるのだ。恐ろしく暇であるというとき人間は何も幸せを感じないでいることに不幸を感じるのだ。何もしなくていいということは素晴らしいことなのだけれども、普段せわしなく動き嫌いなことをさせられている感じている人たちはむやみやたらに動き回り体力を消耗しなければ安らかに眠ることもできないとすれば、それは一種の不眠症という病気であると考えることもできる。趣味に没頭しなければ眠れずお酒を飲まないと充実した時間が過ごせないと思い込み毎晩酒を飲んで眠るのは病気であるが、精神というのは病気である状態であっても魂が気持ちよければそれでいいという考えなのであり決して健康が幸福であるという態度を取らない気がするのだ。おそらくそれは相対主義的に答えを出すなら、健康こそ幸福であり水をたくさん飲んで体重も増えないように暴飲暴食を控えていると気持ちがいいという人もいるのだから、と考えれば私は文字で何を言い表すことができるのだろうかと考えなければならない。おそらくは私が文字を使うときはこのようにし的な独り言のように何も他人の理解を目指すよりも言葉の可能性を切り開く方向にあえて自分の感情自分の主張をするのをやめることもまた修行であるという観念を作り出し自分が置かれている状況を肯定しようと懸命になっている節は否めないが、自己肯定感とは持つものではなく実行することであり善もまた善の心を確認するためには善を実行しなくてはならず善の心を感じているだけで自らを善人だと思うのは怠慢であると私は言わなくてはならない。善であること、いい人であることが取り柄でありそれに執着して生きることは大変苦しいことであるように思われる。苦しいことをわざわざしているのではなく本人は思いなしをして、苦しくても苦しくないと思うようにしているのだ。それに気づかないで過ごしている方がよほど何もわかっていないような気がするのだ。

 批判とは相手に何か投げかけるという行為ではなく相手に対して真心を持っていなければできない行為である。メディアを批判する際に取材が足りないというのは取材をして放送してくれという要望であり期待を持っているから批判しているのだ。何も批判されないのならば期待されていないのだから好き勝手すればいいのだと思うのだ。それがインターネットであり、ネットは批判の対象ではなく批判を展開する場所であると思われているネットもメディアである。しかも、誰の先立もなく情報をみつけ批判的に検討しなくてはならないという点でネット以外の媒体が必要になる。ネットに載っていることが全てであるとは決して思えない。ネットで展開されていることについ点っとだけで自閉している世界も確かにあるかもしれないが、それに安住して過ごすだけ私たちは生身の身体を持って五感を持って空の世界を漂っているだけならばおそらく、大抵の不安であったり不満であったりは消え去るのである。

 世の中にはいかに不平不満を口にする人が多いということがよくわかっただけでも私には収穫であった。

 人間は生身の人間であり動画の中だけで議論をするのは不可能である。動画で議論をするにはルールが必要である。そのルールを知らないで自分の意見を垂れ流しするのは無駄である。それを受け取る人間がいたとしてもごく少数であり自分の他にその意見を発展させることもなく正確に受け取ってくれる人はいないだろう。動画で知識をひけらかすのは大いに結構であるけれども、それは自己目的であることを表明している方がよほど自然であり何か物を教えてやろうという態度、皆の意見も聞いてあげようとするその上で批判をすることもなくのうのうとテレビに出てくるタレントを批判しているような動画は、たとえどんな人物であっても私はそのようは時間の使い方には否定的であり、無駄であるように思われる。もちろん、話す練習になるので家にいながら動画の前に他者を想定して知識を自分の頭に定着させる方法としては良いだろうが、動画の視聴者を巻き込みながらそれを行うのは時間の無駄である。