アウトプット

相手の視点に立ってみよう

他人を見るように強制される社会

 社会と書いたからには無差別に相手を選んでお前もそうだろう社会に生きているんだからという巻き込みの呪文をこの表題につけてみた。

 私たちは社会の中で生きているけれども、社会の外に出ることもできる。それは夢の中だ。夢の中だけが完全なる社会の外でありずっと眠っていたいのは疲れているからではなくてただ現実を本当に忘れ社会の外に出る憩いの場であるからだ。

 以上の理由から導き出されるのは意識化された社会がいかに人間を疲弊させ社会の外へと外へと生きたがるような衝動に駆らせるくらいに過ごしにくいのかという結論であるが、果たして一体何がそうさせるのだろうか。世の中に見たくないものがある。それを見なくちゃならずそれについて想像されうる事実が甚だ私たちの描く社会とは違って異質であるからこそ社会の外へと逃げ出すかあるいは見て無ふりをして自分の持っている幻想を壊さぬように用心するしかないのである。けれども、それでいいのだろうか。第一本人が疲れるではないか。見たくないものを見てしまうということは自分の認識が変わるということだけれども、認識を信頼している時点で既になんらかの吹き込みがあるわけである。その元々持っていた印象やら認識が間違いである事実を指摘されるのが何故不快なのであるのか。また、それらの間違った認識を正すために現実を見ることに意義がないとされ今は見たいものを見てみたくないものはみない、したくないことはしないですべきことだけをするという他人の目を気にした行動ばかりが流行るのは日本に限らずテロリズムが横行する西洋社会においても相手を見るということ、他人を気にしないでいいとする自由、相手への無関心を貫き都合の良い解釈をする自由を制限されているのではないだろうか。それはもっぱら、身体に危険を及ぼす相手であるのかの見極めをしなくちゃならない状況においてどうすれば適切に変人を見極められるのかの訓練を私たちはしているのかもしれない。テロリズムの横行は、社会に不安をもたらすがその不安の前にあった安心が産んだのがテロであるのならば、社会は常に不安に満ちていることになる。つまり、テロリズムだから不安なのではなく社会がそもそも不安であると感じていた自分についてテロリズムが蔓延し人々が相互に不信感を募らせることで互いに自分を見つめる契機になるのだろうと思う。