アウトプット

相手の視点に立ってみよう

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 近頃は問題を設定しないという方向に社会が動いているような気がする。例えば、殺人事件が起きたとしてその事件が何故起きたのかを探ることはしない。殺人は毎日発声しているので一体どこで今度は殺人事件というアクシデントが起こったのであろうかと場所的に報道するだけになっている。また、森かけ問題も裁判になったことで一旦報道に関して憶測ばかりになる可能性から報道しない用意なっている。

 本来ならば殺人事件の捜査は警察がするのであるからマスコミが連日連夜同じ事件を放送するのはお門違いかもしれない。また、日々新たなニュースがあるために同じ事件を扱ってばかりもいられないのであろう。それに、裁判になってしまえばあとは裁判結果を待つのみであるから報道機関が取材する必要性は特にないのである。いわば報道機関は先例に従って報道するニュースを毎日日替わりで提供すれば良くなったのだ。

 一方で、取材の難しさもある。皆無口になり喋らず言葉に責任を持てなくなっており、平気で嘘をつく人がいれば平気で騙される人も大勢いるので変に取材することで事件が複雑化しまた記者の労働環境も長時間必要になる取材はやはり報道機関で働く者たちが使命を持って報道するよりも当たり障りなく批判のない取材を心がけるのが良いのであって、他の報道機関を出し抜くといった気概はもはや発生せずすでに多くの視聴者は多くの読者をもち慣習的に広告塔の一つとなっている報道機関の経営の仕方にも関わる。

 しかし、従業員の意識改革を本来は自らが主体的に行い自らが社会という現象に立ち向かってあるときは視聴者を味方にあるときは視聴者に挑戦的な報道をする必要性があるのではないかと思う。現在はスマホで気軽に世界中の殺人事件の発生状況を知ることができる。殺人事件を報道するにも現場に行きレポーターを送って生の状況をできるだけ伝えることが使命であるはずではないだろうか。当然長い時間労働をしたくないという労働者の意見を反映して入社した途端やる気を失い取材もやめて一切間違いのない行動をしているから結局何も報道できずに真相を藪に放り投げて嫌なものを見たくない視聴者に媚も売れるから何もしないのがいいのだろう。視聴者は大抵バカだからセンセーショナルな感情を煽る扇動報道をすれば勝手に盛り上がり、何も報道しなければ事件はないものとみなされ結局は視聴者を井の中の蛙にしてしまう。報道機関が視聴者を鍛え上げる義務は法的に全くないわけでもないが、要するに低いレベルの教養放送にとどまり芸能人の人生哲学なんぞを垂れ流し盲信させ批判的な思考を本来もつべき報道機関が歪められた事実をほぐすことなく事実として報道してそれに関して歪められたと知ることができないというのならば、報道機関として無責任である。