アウトプット

相手の視点に立ってみよう

不況は欲望のなさ

 中国が東南アジアで労働者に1日千円で命がけのマンション突貫工事なんかいろいろしているみたいだが、比べて日本はラッキーだなんてくだらないことを持っているのまだ平和なうちであろう。特に、中国人が押し寄せてくるのならば日本は格好の場所である。道路は綺麗で、建物もしっかりしている。その代わりにそこで働いている人たちは本当に苦労をしているのだ。東京なんて、地方が米をやらなくちゃ生きてはいけないことを忘れている。そんなこともわからない奴が何を偉そうにものをくっちゃべっているのかしらない。食べ物がなくちゃ死んでも同然じゃないか!それとも仏教の、食べ物に執着するのやめて修行に励むか?それも悪くないかもしれないね。

 とにかく、ブランドが価値をいう世界ほど面白いものはない、なんでそれがそんなに高いのと銀座で叫べばいい、それは銀座で売られているからだよ、だとか、デザイナーが素晴らしいからだよとか、要するに評判がいいから、口コミだから、これを持っているとお金を持っているという証になるからという、銀行通帳でも持ち歩いて残高見せてとなると、犯罪者グループに習われて東京湾に沈められる代わりに暗証番号を脳みそから言葉に変換して告げられるから、そうもいかないのだろう。そんなリスクを負ってまで何かしたくはないのだ。

 それにしても、人間は本当に人間であることをやめた時代だと思う。身体性を失えば失うほどに、人間は非人間的になる。そして、それを無意識に抑圧しているからお金に走る。お金があればいざとなった時に米を分けてもらえるじゃないかと。今飽食の時代だダイエットしなくてはと言いながら、食べ物は腐るほどあるんだから、安心だと思っているのに違いない。東京に住んでいると地方のことなんてちっともわからなくなる。それがわからない人間が昼飯とか入ってくだらない公共放送のくそじじいの甘ったれた糖尿声を聞いて胸をなでおろすくらいがちょうどいい日本人なのだ。何がサラメシだ、死んじまえ。

 まあ、口が悪いね君は本当に口が悪い。口が悪いけれども批評ばかりしてなんの生産性もないじゃないか、まだクソをばき散らしているホームレスの方が清掃人の仕事を増やすためにちゃんと生産しているじゃないかと、のたまってみてもしょうがない。要するに、欲望がないのだ。欲しいものがないのだ。だから、デフレなのだ。ものが売れないのだ。ものの耐久性を減らすしかないじゃないか。生活必需品は1年で交換するようにすればものは流れる。ものが売れれば、その分生産するのでお金が回る。お金がよく回らずに、特定のとこばかりに集まるので金を奪い合うゲームが始まるのだ。ゲームだからどんなことをしてもいいのだ。ばばあからキャッシュカードを盗んで暗証番号を聞き出して銀行で降ろしても構わないし、親戚を精神病院にぶち込んで青年光景人にでもなって代理で銀行から金を引き落としても構わないし、とにかく金がものをいう世界というところに生きていると、どうすれば金を引き出せるのかばかり考えることになる。要するに、金が流れているところに乗っかる等スタイルでは到底勝てないのだ。だから、自分で何か発明でもすればいいけれどそんなことはしない。研究をして顔を治す薬でも作ればいいけれど、それは金になるが人間から死ぬ権利を奪っている。死ぬということは、次なる人がそれを受け継ぐということだ。新聞雑誌は、追悼追悼とお祭り騒ぎをするけれども、ずっと居座られても困るのだ。俺が若い頃はもっと働いてもんだというのも、聴き方によっては頑張れという言葉でもあるし、頑張っているのにも関わらずそんなことを言われるとぶち殺すぞという思考にならないわけもないのだ。一番怖いのは暴力性を内に秘めていることに気がつかない輩だと思っているので、私は内なる暴力を認識してそれを発動しないよう制御している分だけ少しはマシであると思っているのだけれど、どうだろう。一体どうして今の日本人は、つまらない論説ばかり弄って何も自分から考えて動こうとしないのだろう。巷に溢れる啓発本を読んでそれに満足すれば十分かもしれないkが、それから自分の思考が動き始めることがあるのかどうか私にはわからない。それについて何か答えを出せと言われれば、やはりプラトンを読めということになるがプラトンの想起説がピュタゴラス教団の影響を受けているなんてことを言って見ても誰も聞く耳を持たない。そこから類推して、どんな啓発本も古典の類推でしかないとうことに気がつかないはずはないと思っている。文学に制限がなくなればきっと、文学の新しいスタイルは生まれないので、自分ばかりが読むために書かれた書物ばかりが増えていくであろう。要するに、日記というのその人を思考を知ることはあっても決して出会うことはない。それに出会ったとしても、それは洗脳するための思考の材料でしかないということだ。

 なぜ洋書が読みやすいのかというと、具体的な例をもっともらしく引用しているからでそこに自分の感情が一切入らないので万人に受けるのだ。

 例えばこうだ「僕は昨日街を歩いていたのだが、ひどく暑かったので喫茶店に入りコーヒーを頼んだ。そして、椅子に座ってコーヒが来るのをじっと待っていると、湯気を立てたコーヒーが机に置かれた」

 なんと、自分がないことだろう。日本人ならこうはいかない。自分の感情が入りまくっているからこんな簡潔なスッキリとした文章にはならない。日本人の場合必ずと言っていいほどに、感情的な判断がすでに文章にある。

 「僕は昨日街を歩いていたんだ。しかし、とても暑かったので一軒のコーヒー屋に入った。そこでコーヒーを頼んだら、ホットコーヒーが来た。なんて気が利かないんだろうと思った、と同時に、自分がしっかりと注文しなかったことを恥た」

 これである。これは、問題解決型の文章なのでちっとも味わいがない。接続後も使われているの、何か弁論大会でも始まるのかと思わされるほどだ。それくらいに、感情が入っているのだ。

 こうして僕は、焼け石に水だと知りながら生きることにした。とかいってみても、馬鹿らしいじゃないか。日本人の小説家が引きこもり状態なので、当時の社会状況を小説にするのではなくて、昔の説話物語を改変して短編にしたのが芥川龍之介だ。彼が外に出ていた証拠は何一つないし僕の妄想が裏付けられることも決してないだろう。これになんの意味があるだろう。意味もないけれど、喋って見たいことならいくらでもある。要するに、何かを目的に話すのならば人を騙すことになるのだ。そんなことをしていいものだろうかと思わずにはいられない。ないものをないというのが論理的ではないだろうか、それをあるもんだと言い張って結局はケムに巻いてあったけどなくなっただとか言い始めるのだから、本当に不誠実な世の中だと思わずにはいられないのだ。