アウトプット

相手の視点に立ってみよう

自分を離れて

 自分を離れてものをいうことが可能であるのならとっくにそんなことをしているのだとある人言われた。その人は自分であるとは誰も言えない。ものを書く速度は急激に上がった、それは使い慣れた言葉を量産することには貢献して大量の文章を世に解き放ち質がわるい粗悪品ばかりが目立つようになってそれに埋もれて時間を消費することが多くなったのもまた本当のことのように僕には思われるのだが、それについて誰も指摘しないのは当の本人がくだらない文章を書いて生計を立てているから、もし、人の文章をくだらないと言えばお前の文章もくだらないという話になって喧嘩になるだけだから、よしておこうというのが大体の賢明な人の判断であろうが、そこに合理性はちっとも垣間見得ない。いい文章とは何か、悪い文章とは何か、人生とは何か、定義を問うのは今全く流行らないことを知った。今は現象さえ追い求めればいいのだ。どこかで大量に愛するクリームが売れたら、そこに言ってアイスを食べる。なぜここのアイスが美味しいのかを描きまくる。そして、その記事が売れる。人が集まる。アイスが売れる。そして突然アイスクリーム屋さんは消えてなくなるのだ。物を売って買う生活がいいとはちっとも思わない。自分がやりたいこと、やりたくないことを懸命に守ることと、物が欲しくてたまらずそのために貯金することは全く同じことだ。こんな馬鹿げたことに人生の時間を使うのはもったいないではないか。金になることをしようという人間が集まればいいけれども、大抵の人はそんなことに興味がないので、ちっとも欲望が増えずに、要するには、そう、つまり、クソどうでもいい価値観やら道徳が議論の対象になって、あなたと私は意見が違うというのが、ブランド物のグッチを持っているお前と、カシオ計算機Gショックをはめてるやつの違いだと言わんばかりの世界になってしまえば、本当に大量殺人こそ起きないけれども、人間はどんどん意地悪になっていく。この論理は多分論理的でもないし、私自身理解しているとも思えないが、理解するという意味をよく自分が知っているのかと問われれば決してそんなこともないのだと言わなくてはならない。