アウトプット

相手の視点に立ってみよう

対韓国輸出規制は意地悪であり、理由はなんでもいい。

 要するに、対韓国輸出の規制は意地悪である。その意地悪を擁護する事は私にはできない。なぜ、輸出規制をしているのか。その理由は、なんだっていいのである。北朝鮮がたまにミサイルを撃っているが、その意味をどう捉えるのかというのは、北朝鮮という国をどう印象付けるかという誘導によって意味が確定する。研究熱心だなとか、威嚇だなとか、駄々をこねているだな、とか色々と考えられる理由は出揃っている。

 「もうやめにしませんか?」

 こうきたら、こう解釈する。ある一定の現象が起きれば、それをある一定の理由によるとして思考停止に陥る。思考が停止すれば、人間は五感に左右されて欲望のままに従い、それにより手に入らないものについて苦しみ、手に入ったことにより喜ぶ。

 「飼いならされてませんか?」

 購入、消費、捨てる、製造、このサイクルで資本主義は成り立っている。しかし、現在は製造業から情報に産業が移ってきている。では、新しい情報を作るのはどこか。それは、学問ではないか。なぜ、学問がないがしろにされて専門学校が流行り大学に行って基礎教育を受けずに生きることのコスパの良さが優先されることが良しとされているのか不明である。大学に行くことだけが勉強ではないという意見も確かにあるが、大学に行かないとしても最低限読書をしなければ、他のメディアで手に入る情報は全て質が劣るのである。私たちの行為は常に消費されているわけであるから、何に消費されているのかを考えてみるといい。学校に行けば、学生として消費されている。警察に行けば、犯人として消費されている。電車に乗れば、乗客として電気を及び人件費を消費している。人間が活動することで、消費が増える。物が売れなくても、消費は可能である。特に、肥満が増えているのならライザップが”消費者”として利益を上げるのは当然かもしれない。肥満は良くないとするには、厚生労働省の助けと、美人で綺麗なお姉さんがグラビアの表紙に掲載されたり、女性誌にまあまあそこそこスタイルのいい美人を載せるという働きかけが必要だ。要するに、”消費者”を作り出すという事は、不便を増やすことに他ならない。だから規制するのだ。輸出規制をすることで、おそらくは輸出する側も不利益を被るはずなのだ。しかし、輸出する側が輸出を規制する側とほぼ同視できる状況であるのならば、自主規制のようなものであり、不利益を最小化するための算段はついているのだろう。

 

 「実にくだらない。こんなことに人生において巻き込まれるのは、事故である」

 まあ、これを機に輸出に関しての法制度等をホームページで確認して、いかなる理由においていかなる品目が輸出規制の対象になっているのかを知るのは、大変面白い。面白いというのが生きる上で最も根源的な原動力であるからだ。

 もちろん、不安を原動力に人と同じことをして目立たないように生きるというのも一つの手段であるが、それを気にせずにもし「きみ、おかしいんじゃないの」と言われたときに、視野の狭い相手に対して批判をするのではなく、寛大な心で「そうですね、おかしいのかもしれません」というのもいいと思います。しかし、それでは相手はかたくななままです。おそらくは、そういう頑固さを商売道具にして自らを律し、生きてきたのかもしれません。しかし、そのような生き方が正しいという習慣的な信念の元に生きている人間にとって、自由で貧弱な側が意見をして、それに対して聞く耳を持ったとするならば、相当相手は寛大な人ですからまず「きみ、おかしいんじゃないの」というようなことは言わないと思われますので、結局は「どこがおかしいんですか」とはっきり冷静に話し合いの議論の場を作り出し、自らもそれによって考えを改め互いに歩み寄っていくしかないのかもしれません。互いに、異質な存在であることを認めて、適度な距離感を設定し、共存していくしかないわけです。これまでの、グローバル化の流れにあった世界では、相手の文化を理解することに重点が置かれていましたが、ある時期になると相手の文化はわかるけれども自国の文化はちっとも知らない党自体が発生しました。文化が相対化されたのです。結局、自国の文化でもいいじゃないか。文化を消費しようということになったわけです。そして、今現在の国内需要を増やして消費を促し経済を活発にするという、もううんざりするほど聞かされた呪文を実現しようとみなさん躍起になっているわけです。

 話がだいぶそれてしまいました。結局何が言いたいのか、という人がいますが、結局話を聞いて何を頭の中に理解したのかというのが私の言いたいことです。そう思ってもらって構いません。