アウトプット

相手の視点に立ってみよう

アウトプット

 このブログのタイトルでもある、「アウトプット」であるが、その意味を定義すれば、自分が持っているものを吐き出すということだ。だから、自分が何かを持っているということをアウトプットすることで確認することができると、そういうことになる。しかし、一人語りであるから自分が何かを持っていること、何か知識を持っていることを確認することはできない。せいぜい、自分はこんなことを知っていると思っていることが、アウトプットしても出てこない自体に陥る。思っていることを素直に書くことはないので、アウトプットは歪んだ形として表現せざるおえなくなる。そうすれば、自然、アウトプットに嫌気もさしてくる。歪んだ表現は奇妙であり疲れる。

 そこで、丁寧に正確にアウトプットすることを目指すべきではないかという議論をここに提案したい。いったいこの議論の参加者は誰かというと、私なのであるが、私自身が読んだ本で私により解釈されてしまった人たち、例えば、プラトンだとか、著作を残していないソクラテスだとか、ジャック・ラカンだとか、ジャック・デリダだとか、芥川龍之介や、三島由紀夫や、いろいろ私は読んだので彼らの言葉がミックスして私は無意識の中に、今このアウトプットの記事を書くために費やしているエネルギーから放り出された別のエネルギーを無意識に溜め込むことになる。無意識に溜め込んだことを文章や実際に目に見える形で可視化することが、心の安定につながるのだが、養老さんも言っていたが、不安とどう生きるのかを問うべきであり、不安とはいつも漠然としているわけで、不安の対象が明確になればそれは恐怖に変わるというのだ。先端恐怖症だとか、高所恐怖症だとか。しかし、未だ明確になされていないけれども持っているのが不安。不安をなくそうとするのではなくて、不安とどう同居するのかを考える方がいいのではないかということを養老さんがいったとき、「ああ、なんかいいな」と思ったわけだ。だから、不安があっても大丈夫だよというのではなくて、不安とどう仲良くしていくのかを考えていこうよという風に物事を考えられたら、あるいは考えるのではなくて実践することが大事なのではないかと思う。加えて、茂木さんのイギリス留学の話で、イギリスでは知性と人格が分離されていて、変な奴が変であるけれども変人扱いされることがもはや賞賛であるというのだ。変人や、狂人が賞賛の対象であるのはもちろん、アカデミックな立場にいるからこその許された振る舞いであるのだが、茂木さんが言っていたのは、例えばあるアイディアを出した時に、それを机の上のテーブルに置いてほかの皆が議論をするように、リタッチできる土壌がイギリスにはあるらあしい。特許を取得して、専売するような発想がそこにはない。自分が考えたのだから自分のものだという議論もない。それよりも、誰かが出したアイディアであるがその”出自”を重要視することなく、皆が議論できるようなオブジェにするのがイギリス流らしいのだ。私はそれはすごくいいと思う。誰かの意見だからそれに反対する人がいても実は考えていることは同じで、ただ気に食わない人が言った意見だから反発してやろうというのは果たして人々をハッピーにするのか疑問だからだ。誰かの意見であるよりも、意見そのものをオブジェにいろんな人が語らえばいいのであって、それをすぐにお金儲けにつなげようと考えるから私はあんまりそれは面白くないと思うのだ。

 そこで、私は考えるのだけれども、私という言葉をいかに使わずして物事を語るのか。私っていうのをなくして、言葉を発する時それは他者であるように思われる。良く日本人に主語がないと言われるが、それは三島由紀夫もしばしば指摘していたことで、主語がないのであたかも自分もある主張者の意見に賛成しているかのような感じを醸し出すこともできる。そして何より、誰がその意見に責任を負うべきかについて、責任なき意見は口に出すなというのを感じる。責任を持てないような発言は、全く聞き耳を立てない人が多い。それがどんなに素晴らしくても、その人が責任を取れなければ考慮さえされないのだ。だから、主張そのものが抑圧されることになり、議論は普段嫌い抜いている相手を、ただ嫌いだという理由だけで言葉により攻撃する場に変質してしまう。このような、胃の中が荒れるような思いは誰しもしたくはないだろうから、当たり障りのないことを言って私は別にあなたを否定しようとはしていませんという話になる。つまり、言葉と人格を同じにすることから始まる不幸である。言葉は他者に向かっている。常に。法律は誰か一人に適用されるのではない。人を殺すなというのは他者に向けられている。その他者の中に自分もいるのだ。他者の中に自分がいるのであって、他者と対立する立場として自分がいるわけではない。自分は他者の中にある。つまり、ある主張をする場合その主張の責任を誰が取るのかという時、そもそも責任は取れないというのがもっともな回答であろう。例えば、友達を助けるために、隣にいる知らない奴も怪我をしていたとして、どちらも看病できればいいが、それができない時に決定することが要求される。基準は友達であるのは間違いないだろう。しかし、友達と知らない奴を区別する必要が医療においてありえるだろうか。もちろん、医療も一人の人間がする行為であるから、倫理を超えて人間の感情に従い、後で友情をぶち壊したやつとして烙印を押されないために友人を助けた場合、それが友情として美しいものであるのか疑問である。だから、見知らぬ奴を助ける選択肢はないのだ。自分の行為が保存された場合振りに働かない方を選択肢として選ぶのが、賢明であるとされる。

 以上いろいろ書いてきたが、養老さんの話を後少ししてみる。養老さんは、ニーズがわかるらしい。そして、ニーズはいつ誰にでも成り立つ真理である。アインシュタインは全く個性的ではないのは、相対性理論が今尚妥当するからであるというのだ。私たちは、100年先も通用するようなことについて考えているだろうか。100年たっても、そうだよね、と言われる意見をいうアインシュタインは個性的ではないが、相対性理論は素晴らしいということになっている。個性的であろうとする必要はないではないかと、養老さんはいうのだ。個性的であろうとしなくても、それは何かと関わることで自分が変わってしまうことの恐れもあるというのだが、自分が変わることが怖いから自分を守るというのは如何なものかというのだ。確かに、自分が個性的であるということに価値を置く場合、その価値を信奉する信者を周囲に置くだろう。しかし、自分が変わることを恐れて、自分の知らない何かと出会わないのは、大した個性ではないからだ。この点、少し過激な感じもする。とにかく、自分にこだわるな。自分を捨てろ。忘我である。養老さんは自分で言っていたが、唯脳論を書いている時これは仏教じゃねえかと思ったらしい。

 では、僕について話そう。ここでいきなり、僕という一人称を多用することを許してほしい。僕は、面接で落とされた。今僕がそれに受かっていればこの夏休みは最高だ。海に行ったり、外に行ったりして夏を謳歌していたであろう。そして、溺れて死ぬ確率も幾分高まったかもしれない。しかし、肉体的な死よりも精神的なゆとりが形成されることが私には大きな対価であり、結局は私は精神的な拠り所を探し回って養老さんの意見に耳を傾けてみたり、中村元さんの本を読んでみたり、いろいろしているのだ。ほかの人がなぜ本を読むのか、ほかの人が本を読む理由を僕にも共通する言葉で言い表すことは非常に難しい。しかし、僕が本を読む理由とほかの人が本を読む理由が重なっている部分もあるはずである。その重なっている共通した理由を先鋭化するには、相手の応答が必要である。それは議論の形でなされる。しかし、ブログは一人語りであるから自らの他者性にその相手役をさせなくてはならない。文章を書くには他者性なくして、読むに耐えるような文章を書くのは難しい。

 そこで、僕は以上のことを考慮してなぜ、本を読むのかと考えた時に精神的な拠り所を求めていたのだ。しかし、それは信仰心ではない。ある何かを支持して、それ以外を排除するような文章ではなくて、僕の精神にゆとりをもたらすような読書こそ、本を読むことの意義ではないだろうかと思う。あの人はああいうが、この人はこういう、という世界である。そして、読書によってひろがった精神、それによって感じられるゆとりは豊かである人生を静かに優しく眺める視点をくれる。いや、時には冷徹である場合もあるのは確かだ。ただ、読書の目的を設定するのがいいことなのか、それを信奉することには疑問である。そこで、自分の疑問が立ち上がる。自分に疑問がなければ意味がない。疑問なき人生は死である。これは、ゆとりであろうか。たとえ、働いていても疑問がなければ死である。そして、疑問により自ら死ぬよりも純粋な自己の疑問を大事にするべきであり、周囲から投げかけられた疑問は半分くらい受け取って後の半分はスルーするのがいい。それは養老さんが言っていたことだ。ゆとりを持って生きた方がいいのだ。たとえ損をしたとしても、得をした人間を羨むようではまだまだ修行が足りんということだ。

 さて、面接の落とされゆとりない夏を過ごしている僕であるが、本を読んでゆとりを確保しようと今奮闘中である。