アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 美しい水玉が、反鏡面に世界を映し出す。逆さまの世界のポケットから落ちた1セントを募金する。世界が調和で満たされることはない。世界が平和になることもない。嫉妬と羨望が渦巻き、共同して経済が動き人々に笑顔と苦悶を与えます。

 何もいらないのです。何もいらないのですが、それにしては人生が長いという欠点があります。労働者が皆死ねば、工場は動きません。一体、支配者は自らが工場の生産をしなくてはいけなくなります。下手に長生きするから人生は辛いんです。短く淡々と生きられる時代を私は望みます。

神さま

 悪魔は私を見ているのでしょうか。仏教は私を救ってくれるのでしょうか。何もかも諦め、生きることは意地汚いと。世の中は希望に満ちているはずです。それが見えないだけですよね?私には見えないだけ。皆には見えているのに。取り残された私は、暗い森の中の漆黒に身をゆだねるのです。

 私がもっと言葉を多用していたら。私がもっと自己主張していたら。世界は変わったのです。でも、私は遠慮してしまいました。それが最大の過ちだと今になって気づいても、遅いのです。今はただもう、業火に焼かれるだけです。

 時はきました。遠い過去より夢見た地獄が今宵、眼前に広がっているではないですか。横たわっているのは、地面を這い回り溶岩を目指しています。肌は溶け、髪の毛は全て焼かれ、頭には皺が押し寄せて、水を求めて、火口を目指しているのです。

 神様、あなたは私にふさわしい罰をくれたのでしょう。そう考えないわけにはいきません。私のしたことが、私にそっくりそのまま帰ってきました。あなたを恨まないわけにはいきません。私と勝負をしてください。私はあなたと闘い、潔く散りたいのです。決して、笑いながら「愉快な人生だった」とは言えないでしょう。目には涙が溢れて、私は悔しくてたまらず泣いてしまうのです。世の儚さを嘆くのです。

 神様、わたしは酷い人間でしょうか。どれだけの報いをうければいいのでしょう。限度を超えて私を試しているのでしょう。遊びにしては度が過ぎています。わたしはもっと耐え切れるかもしれません。でも、疲弊しきってもう阿呆になってしまいます。動けなくなり、地面に付して死ぬのです。硬い灰色のコンクリートの上で。

 ああ、神様。私は十分に報いを受けるのに、あなたの刃が必要です。どうか、わたしを突き刺してください。真っ赤な血が空から雨になって地上に血だまりを作ってください。どうか、わたしを突き刺して、わたしをあなたのいる世界に住まわせてください。

 この願いも、受け入れられるのでしょうか。阿呆になったわたしには、十分贅沢な願いですね。神様も忙しいでしょう。順番におやり下さい。わたしに構うことはありません。わたしが神なら、わたしはわたしを突き刺せるはずです。でも、できません。だから、あなたに委ねているのです。あなたになら、刺されてもいいのです。痛みも堪え切れるかもしれません。泣きわめいても、無感覚よりはマシです。

 今、世界は知ったかぶりに溢れています。古代ギリシャ人が大好きです。彼らの素朴な論理的思考は自由奔放で創造的で美しいのです。ギリシャに夢見て、わたしはこの世界にさようならをしたいのです。物を考えない。いかに決められた軌道を外さないように生きるのか。人間がいません。この時代に、人間は嫌われ者です。わかりますか。あなたが作りなさった人間が今、厄介者にされているのです。欲望の奴隷になり、人間性を失っています。社会に、その正当性を持たせようとしたのです。あなたを殺したつもりになってね。でも、あなたは死んでいません。死んだふりだってできるのです。社会は調子に乗って科学ばかりやっています。中毒状態です。科学的であれば何事も正当性を持っているとみなされます。

 わたしは耐え切れないのです。この世界の傲慢さに。会話は同じ。皆が自由な考えを微塵も持たず、挨拶のようなコミュニケーションがなされる。同質性に価値があり、差異に価値はないのです。付加価値よりも、共有です。共有することが、楽して物を手に入れ楽して物を捨て去る都合のいい概念として広まり、今後もっと共有されることが増えるでしょう。一方で、物は買われなくなります。それで結構ですが、その次に来るのは何か。人々を説得するためのお話が来ます。君は美しくないから、美しくなりなさい。この命令に突き動かされ、みな苦しんでおります。

 どうでもいい話をしてしまい、申し訳ありません。あなたの傍で眠りたいのです。神様。きっとすべてを愛せるのでしょう。わたしには愛する能力がないのです。まったくないのです。だから、言葉で愛を伝えられないのでした。どこか、嘘だなということ。そればかりが、わたしの脳裏に焼きついています。わたしは嘘ばかりついて、そして、地獄の入り口に立たんとしている、ただのにわかなのです。殺人もしていない、強盗もしていない、悪いことを何もしていないという無自覚が、わたしを地獄へと駆り立てるのでしょう。ソクラテスが無知の無自覚を説いたのならば、神は、悪の無自覚を説いたのでしょう。誰もが、自分は善人だと思い込んで、わたしは悪くない悪いのは相手だと言い立て始めます。悪の自覚がたりないからです。一生、非を重ねながらそれでも生きるのでしょう。

 神よ、私に取り憑いてくれ。私の心は、あなたのためにたくさんの空間を用意している。私は入れ物です。私は器です。あなたのためにスペースを取っています。そして、私ご動かしてください。崖から突き落としてください、森の中で宙吊りにしてください。誰にも知られずに、死ぬなんてことがないようにしてください。死に価値はあります。ジョンレノンも死ななければ、忘れられていたかもしれません。愛の中死んだ彼は、雪の降る12月の8日に神の遣わした男にピストルで殺されてしまったのです。銃弾には神が雇っていたのかもしれません。ジョンレノンの命を奪い、永遠を彼に与えるためない。彼の美しい旋律が永遠になるように。とこしなえな愛を与えたのです

 私が愛した人は、もう私を愛していません。私は愛から遠ざけられ、私を愛してくれるのは再びお金だけになったのです。それを羨む人間たちとも大勢会ってお話をしてきました。運がいいね。親に感謝しないと。何もわかっちゃいません。愛の代わりに受け取ったお金に感謝しろというのですか。親の愛はお金ではありません。しかし、それも共働きが生んだ悲劇かもしれません。人間がわからない私は必死に読書に励みました。世界は広がり、人間の社会的に抑圧された交流をみることすらあります。愛はお金で買えますでしょうか。愛がお金で買えるのなら、私はいくらでもお金を愛に注ぎ込みます。少額ですが、私はそうしてきたのです。

 神様、私は今死にたい気持ちでいっぱいなのです。でも、体は生きている。健康そのものなんです。だから、死を私の頭にください。体は元気だから死ぬには体を痛めつけなくてはいけません。血管を切り裂いて真っ赤な浴槽で死ぬのが私の夢です。意識は遠のき、「ざまあみろ」と言いながら死にたいのです。それは、散々私を除け者にしてきた私にたいしての悪態です。

 夜の森に私を井戸に突き落としてください。まあるい月光が井戸の底から見えている間に死にたいのです。私の欲望はいかに死ぬべきかを考えることにあります。神様はその手助けをしてくれるのです。月を動かし、井戸を用意して、私に井戸に飛び込む動機を与えて欲しいのです。まだ、まだ足りないのです。恋人に、恋人ができたくらいでは。 

 なぜ、人は一度のセックスでは満足できないのでしょう。なぜ、恋愛をするのでしょう。なぜ、でしょう。私にはわかります。貧乏をしたくないだけ。せっかく、手に入れたキャリア、それは無教養でありますけれども、それを手に入れたくないのです。社会のいうことを唯々諾々と受け入れてきた人間たちが、信仰もなく科学的な理由を適当に口に出しているとき、私はこの世の地獄を見るのです。笑顔は消え去り、無表情な人々は急ぎ足で目的地に向かいます。まるで、ロボットです。目的がないのです。だから、目的を買っているのです。ああ、私はこんな世界を生きたくはないのです。静かに、眠らせてくれませんか。暖かいベッドの上で、永遠に瞼のあかない朝の来ない夜を私にくれませんか。ねえ、神様。あなたならできますよね。

複雑性

 世の中複雑だ。そもそも世の中があるのなら、なおさら複雑だ。そこで便利性がもとめられる。スマホで決算できれば便利だ。スマホで恋人が探せれば便利だ。スマホが恋人になればなおさら便利だ。

 便利を追求し、無駄をなくす。隙間時間で好きなことをする。さて、何をしますか?ってはなし。

 釣り人同士の話。君は儲けて何をするんだい。儲けて働かないようにするんだい。そうして、釣りをするんだい。今その釣りをしているじゃないか。

 要するに、今していることを愛すればいいじゃないか。メディアは将来のために生きる人たちを量産して、今を蔑ろにしている。勉強を推奨するメディアなんて聞いたことがない。今が楽しいという感覚は大事だ。それによって人間は精神的にも安定する。児童虐待だとか殺人だとか、社会問題を取り上げて闇を暴露するのもいいけれども、そうじゃない人間のことも考えて欲しい。私たちが虐待もされず、殺人にも巻き込まれないからそうして問題にしたがるのだ。問題、問題と騒ぐけれども、加害者を責めても何もならない。虐待している親への社会的制裁という不安感を与え、ますます子供にぶち当たりかねない。世の中には昭和の感覚で子供を養っている人間もいるということだろう。虐待を止めることは私にはできない。周囲に虐待をしている親もいないし、そんな人間関係もないから。だから、虐待はよくない、虐待すれば子供もまた虐待をするようになる、としか言えない。その程度のことしかできない。そこがいいんじゃない。

 虐待された子供がどうなるのか、そこまで社会が面倒を見るのは無駄だ。無駄なことは不経済だから公務員がしなくてはいけない仕事だ。無駄なことをするのが公務員だ。道路を整備しながらも、地産地消を推進する。それが国家だ。要するに矛盾しているのだ。

 でも、矛盾しているのが世の中だから特段違和感も覚えない。そもそも、何が無駄で何が無駄ではないのか。それさえ、曖昧だ。霞みがかったところで、白い霧の濃度の濃い場所で隠れながら何をしても別にいいのだ。ばれなければ何でもできる。でも、バレるからやらない。

言葉の世界に生きる 「モテる」とは期待されるということ。

 あまりにも現実が辛い時は、言葉の世界に逃げる。言葉の世界は自由だ。そこがいい。りんごがあるといえばある。ないといえばない。それが言葉の世界。現実はそうはいかない。りんごを買いに行かなくちゃならない。その面倒を省いてくれるのが言葉の世界だ。愛しているよと言う便利な言葉がなければ、毎日贈り物をしなくてはならない。それは大変だろう。だから、言葉の世界があるのだ。その代わりに、贈り物は一切送らないことになってしまいかねない。

 言葉の世界にいきるとは、言葉を現実感覚をもって受け取ることだ。痛いと書いてあれば、痛いという感覚を脳内に発生させる努力をしなければならない。慣れてくると、痛いなんて言葉を文脈で捉えてその意味を考える始める。痛いっと主人公が言ったけれども、本当だろうか、本当は痛くないのではないだろうか、心が痛いということだろうか、それともお腹が痛いのだろうか・・・そうこう考えているうちにオリジナルな世界ができる。一冊の本を読んで別の世界が波及して生まれてくる。それがいいんじゃない。だって、みなが同じ感想を持つことなんてありえない。なぜならば、皆が同じではないからだ。なのに、友達だとか恋人だとか性格があった人だとかを探す。そんな人いないのに。完全ではなくても、少しは性格があった人がいいという。そんな世界だから、人間同士では上手くいかない。婚姻届を出して、互いに愛し合った事実を公的に言葉によって保障させなければならない。どこまでいっても男は言葉の世界を彷徨い歩いているなと思わずにはいられない。だって、女はオーガズムが最高の快楽なんだもん。男だってオーガズム迎えるのは好きだが、そこまでの快感ではない。だから、美人だとか、婦警だとか、いろいろオーガズムを迎えるにあたった付加価値をつけたがる。野外プレイ、SMプレイ、セフレが1000人とか、女はみんな俺のセフレだとか。そうやって、付加価値を自分なりにつけて興奮して射精するのが男。女はオーガズムに達するために付加価値をつける必要がそこまでないような気がする。言葉の世界の付加価値をね。もちろん、上手いやつがいい。でも、べつにそいつが官僚であろうと、年収3億であろうと関係ない。ただ、居心地の良い環境をつくってくれればそれでいいのだ。年収3億はそれをしてくれる期待を女がもてるといういみで、その男は「もてる」のだ。したがって、モテるとは、期待されるということなのかな。

女性の地位が向上している

 リーマンショックに比べれば株価2万円台と景気も回復しているが、景気に良し悪しがあるのかという疑問を払拭はできない。人々が笑顔なら景気がいいし、やれ日経平均株価が1万円を切ったぞ、マイナス金利だ、預金が増えない、倒産件数がうなぎのぼりだ、完全失業率が5パーセントを超える見通しらしい。そこで、はあ、とため息を出すようなやつにはなりたくない。でも、景気がいいとはそういうことだ。皆が物を買って笑顔になるのが景気がいいってことだ。物を買いまくってブランド品まで手を出し、さすがにブランド品は買えないよとなればなく喚く。それは、景気が良くなったのにすぐにまた景気を悪くしたのだ。自分の機嫌も一緒に悪くなる。景気と笑顔が連動しているのが、消費社会だ。

 女性は存在しない。ラカンはそう言った。ラカンはフランスの精神分析学者だ。彼は養老猛司に似ている。今見ている世界は嘘だよ。だいたい、そんなことを言っている。言葉なんて嘘だよ。目の前の甘い果実と、りんごという呼び名に関係性はない。手に取ることができりんごと、りんごという呼び名に意味はない。すべて、あだ名だ。ミハエルシューマッハは、落日の赤き皇帝というあだ名を持っていた。あだ名は本人の知らない東洋の端っこでシューマッハも知らない呼ばれ方をされている。すべて、あだ名だと思い込ませることができるか。現実的な感覚という毒された世界になれ親しんできた私は努力してその現実的な感覚を捨て去らなくてはならない。あだ名でしかないからだ。やりたくないことはやってはいけない。どうしても、やりたいのならやればいい。それが法律を犯すようなことでもやりたいのならやればいい。そのとき、人間は一番輝くのだから。

 女性は存在しない。言葉の世界ではね。言葉の世界では、女性は語り尽くされない。定義されない。女性が何者であるのかといってみたところで捕捉できない。男は女に欲情する人間という言い方もある。男性器がついていれば男ということもできる。様々な、差別の仕方を学問というが、女性について何か発見があっただろうか。男は、ファルスである。もちろん、ファルスを持った女もいる。生物学的な女でファルスと持った女は男である。精神分析学において、定義は意味をなさない。ルールがない世界における言葉とは何か。言葉はファルスを中心にしている。例えば、ここではファルスは女性だ。と、私は思うのだが、もしかしたら法律かもしれない。とにかく、女性ということにしよう。仮定だ。話を進めよう。女性の地位が向上すれば、頼れる男がすきーなんて女はいなくなる。なぜならば、ファルスを持っているから頼れるのは自分だけなのだ。すると、助け合いの精神がなくなる。今までファルスを持ったことがないから扱い方を知らないのだ。ワンマンにもなるだろう。けれども、男をたぶらかすことに関しては一流なのが女性なのだ。化粧をして笑顔を振りまく、それだけで嘘なのに男はその嘘を愛し続ける。男は嘘が大好きだ。ファルスも嘘だろう。何もかも嘘なのにそれを信じきることでしか生きていけない男と、嘘でも本当でもない世界で生きている女性にとって、男性は安定剤となりうる。女性にとってみれば、世界はゲームでしかない。任天堂スイッチでゲームができるが、それと同じである。それくらい現実世界は、女性にとって有利している。だから、子育てもゲームである。そこに人間教育なんてない。ゲームのシステムを理解し、それを実行していくためのスキルを教育という。ゲームをしているだけのなので、絵画の良さはわからない。全てが数字で価値基準が決まる。20歳男性年収300万。28歳男性年収500万。23歳男性年収490万。30歳男性年収1000万。ゲームの世界だから、これでいいやつを見つければいい。私なら30歳男性1000万だな。その男性の努力は女性に選ばれるためだけにあるのだとすれば、悲惨だ。念願叶って、金に群がるリスキーな女を手に入れるチャンスを手に入れたのだから。浮気性ならなおさら、夫が1000万稼いでいる間に昼間はやりまくっているんだから。それでも、女を好きでいられるのなら、その夫の1000万は女から選ばれるためではなく、自分の好きなことをしていれば1000万になったよと言う話かもしれない。1億でも10億でも1000億でもいいのだが。

 女性がもてはやされるのは彼女たちが消費社会を担っているから。新しい発想だとかよりもどれだけのお金で何ができるのかだけを考えているのは、あまりにも勿体無い。金がない限り動けないならば、危ない。今女性は、金に飼い慣らされようとしている!と、男が叫んでみても、お前に金がないから女を道徳的な善悪を基準に男を見るよう強制したいだけだろうと言われても、確かにそうだね、と答える他に素直な返答を私は見出せない。道徳の善悪と、素直さは関係ないことを最後に書き記しておこう。

あるがままでいいじゃない

 どうして努力するのか、と自問自答して、将来後悔しないため!と考えたことがない奴はいない。将来後悔しないために、将来のために今を犠牲にするというニュアンスが努力にはある。将来のために今を犠牲にする生き方を、後悔しない生き方というのだ。わかるかい。将来っていつの時だい。結局毎日将来のために生きている。将来くることはない。それに、今の生き方が将来の後悔の原因になるならば、いったいどんな生き方をしているっていうんだい。人間ってのは、変な奴を排除するシステムをいろいろ用意している。変な奴と一緒にまともな奴も一緒にまとめて排除してしまうらしいこともわかっている。要するに、システムを知っている奴だけが排除されないで済む。知っているのは、排除のシステム。そのシステムを作った目的は何も知らない。飼い犬に噛まれるのと同じ。いつの間にか、立場が逆転しちまったんだ!

 今行政学で資格任用制とかやってるけど、人間の好みよりも、秩序ある人間を採用していこうということに他ならない。私は人に嫌われる方なのかもしれない。だから、面接に落ちまくっているのだ。そう考えた方が楽だ。自分の能力は人に嫌われることです。つまり、ご機嫌をとるのが下手なんです。悪性の素直さを持っているのです、とそう言えるのかもしれない。残念な人間ってやつなのかもしれない。かもしれないと書くのは、そうじゃないだろうと自分は思っているから。あっち側の理屈を私がまんまと採用するわけがない。私こそ究極の好みで意見を採用している。もし、私がいればの話だけれども。結局は、自分なくし。自分をなくせば、偏見もなくなり、世界もなくなり、壁もなくなり、何もかもなくなり、自由となる。でも、なくすにはそれなりに技術がいる。自分なくしをするには、言葉なくしもいるんじゃないかな。

萎縮

 世の中がとても薄く感じる。それも、私の感性ではない。他人のものだ。他人と自分を分ける境目を作る必要性がわからない。あまりにも論理に従いすぎて、それに気がつかないの自分に疲れ果てているのかもしれない。だから、感性がなくなっているのかも。感性がなにかなんてわからないけどね。本音を言えば、無駄にしたくない。感性を無駄にしたくはないんだ。だって、もう大いに無駄をしてきてるから。どうにもならないようなことを今更ああだこうだ言っても仕方がない。未来は暗い。でも、今は昼間だから明るい。台風のせいで湿気がすごい。冷房のリモコンどこいった。それが、私の感性だ。高尚なところはひとつもない。なくていい。何もない方がいい。持っている人への恨みかもしれない。持たざるものの嫉妬。それを保有している私。別に、可愛くもない。ないのだからそれでいいと、また論理的に開き直るしかないのだ。しかし、完成に身を委ねれば差別の世界だ。解決策はない。あいつは臭いから嫌いだ。あいつは太っているから嫌いだ。感性で世の中を生きれば、自分こそ嫌われる。社会に嫌われたらおしまいだ。しかし、社会に好かれるような奴は全員道化師だ。思ってもないことを言って、社会の奴隷になっているだけ。それを人気者だと囃し立てて嫉妬する。自分の方がもっと奴隷だと思っているから嫉妬する。外国人実習生の奴隷労働とかいって、結局は記事の閲覧数稼ぎ。タイトルで釣っといて、中身はうっすいのだ。タイトルクリック。中身はないけれど、タイトルだけが魅力的なのだ。外国人が奴隷にされている。かわいそうに。帰ればいいじゃないか。とはならないのが外国人実習生だ。こっちにも需要がある。だから、帰ればいいじゃないかとはならないのだろう。社会って奴は絶望的に私に興味がないらしい。興味のない奴らと付き合うのは苦痛でしかない。それに慣れてしまえば、社会は振り向いてくれる。待ってましたと、君がそうなるのをずっと待っていたんだよと手を差し伸べてくれる。援助してくれるのだ。ありがとうございます、と涙を浮かべて顔には笑みが浮かんでいる。今だって十分に社会主義国だ。下手に定義をするから言葉が意味を離れて実際を表現できないでいる。テレビは政府の広報機関でもある。最初に殺人、強盗、偽装、不倫、なんでもいい、タイトルで餌をばら撒いておいて、政府の政策をチョロ流しにする。全員が公務員みたいな社会じゃないか。あまりにも法律が多すぎて。規制が多すぎて。だから、イズムの時代は終わっているのかもしれない。社会を変えることはできないから、自分が変わろうよということ。自分が変われば世界も変わるだろうということ。変わることばっかり考えて、それもまたとてもめんどくさいように思われる。めんどくさいことばっかりしているうちに朽ち果てて死んでしまう。せめて、めんどくささを愚痴にして話す相手がいればいい。それが同級生だとか、同僚だろう。同じような境遇であるという幻想を抱かせるのが、同級だとか同僚だ。彼らの言葉をまともに受け取っていれば頭が可笑しくなる。もともと、私の頭がおかしいのだから、そう気にすることでもないんだろうけど。萎縮してしまわないように、なんとか思考を拡散させているだけの話。息が詰まりそうなほどだから、息を吸おうと野外に出ているだけのこと。それを責められるのは、お前何であの時死ななかったのかと問いかけるようなこと。世の中は、いい世の中を目指しているわけではない。いい世の中なんてない。いいなんてことは何一つない。世の中はなければそれでいいが。あるように思われている。世の中と言葉にするからあるような感じがする。でも、世の中と言って何か具体的なことを話し出すと途端に見ている世界が変わる。世の中は全体の最大公約数で抽象的な概念でしかないことを知るべきで、しかも、世の中なんて言葉が作り出した幻想でしかないのに、世の中のせいにしている。もっと具体化させれば、他人の視線だとかになるのだろう。しかし、具体化させるとあまりにも近すぎるので世の中のせいにして薄めているのだ。世の中が悪いといえば、そうだね、世の中が悪いということになる。お前が悪いとはまるっきり違うから。そんなわけで、言葉をどう扱うのかについて考えてみた。思考を萎縮させるような言葉を吐くような人間にはなりたくない。人を萎縮させて不平不満が解消されるわけではない。そう思うのだが賛成してくれる人もいない。賛成だけしてくれる人なら私が有名人になればいい。それだけの話だ。内容なんて誰も気にしない。タイトルだけの時代。中身はない。なくていいのかもしれない。外国人実習生奴隷労働の実態。タイトルだけで読む気は失せる。どんな気持ちで読めというのか。外国人とは。法律はあくまで問題解決の手段だ。仲裁の手続きでしかない。外国人である前に人間である。人間が奴隷として働かされるのは良くない。しかし、人間でも言葉も違えば肌の色も違う。言葉が違えば、幻想の世界の差異は大きくなるだろうという感覚。それさえ疑わしいのだが、言葉が互いにわからないのでは細かいところまでを設定して世界をメイキングする幻想を作れないのだ。世の中はうまくできている。まるで世の中が存在するかのように皆が動く。そのように動ける人間だけが真面目な人間なのだ。世の中なんてないと思いながらも、それに従って生きている人間だっているのかもしれない。未だに、外国人だとか言っているのが世界だ。利権が絡まないはずがない。最低賃金も設定されていないだろう。世の中がいい方向に向かっている時期なんてありえない。自分たちという幻想が作り出している世の中をいい方向に向けて作り上げていこうとする偽装ならあるのだ。私の欠点は、その偽装工作に感情が追いつかないことだ。今がいいと思えない人たちが集まって、今よりいい社会を作ろうとしている。それを素晴らしいとも思えない。徒労でしかない。それは自分がいい思いをしていたからかもしれない。ここまで来るともう分かり合えない。さいようなら、なのだ。