アウトプット

相手の視点に立ってみよう

たとえば、人の話をきくということ

誰かと特別な関係になるということは、一つは世の中で認められている儀式を、互いに履行をすることを通じて世の中から承認され、特別な関係特別な関係にいたるという形がまずある。

 そして、より本質的にまた個人的に特別な関係になるあり方として、相手と会話することがあげられる。会話と言っても、上っ面ではなくて他人に言えばつまらないといわれたりおかしな人だと言われるので黙っているような話のことであり、それをお互いが話せるという仲を特別な関係とよぶことができる。しかし、他人と同じような物の見方しかできない人は、上記の世の中から承認される儀式を通じてしか特別な関係を構築しえない。故に、その人は個人主義的人間存在のあり方から遠い場所にいると言えよう。もちろん、両者を重視するのがもっとも中庸のある意見で、無難であり褒められる態度であるのは言うまでもないのだが。

 ときに、前者を無視し、世の中の儀式をばかにしつつ、特別な関係であることがどこか自由の空気に通じるようで楽しいという気持ちになるのは容易に理解できるのではないだろうか。どこか、ビートルズに通じるものがある。お金や名誉または容姿にこだわらない愛。まさに、愛というものをもっとも厳格に定義すれば一方通行の無償の善意ある行為なのであるが、しかし、善意といいつつ見返りを要求しているではないかという批判がされるのが世の常である。だから、一方通行であるために、善意ある行為をした後にその場を立ち去らなくてはならないのだ。もっと厳密にいえば、善意ある行為の後に直ちに死ななくてはならないのである。

愛とは死ぬことと見つけたり。

山本常朝は日本のイエスキリストだとつまらないことをココに書かせていただくことにする。長文駄文失礼しました。いや、全然失礼だとは思っていないけれど。

 

特別な関係という言葉についてすこし補足をしておこう。とはいっても、補足できないほど特別な関係は主観的によるものでもあり、客観的に定義すれば法律では婚姻となり、習慣条理で言えば彼女彼氏の恋人関係ということである。実に野暮ったらしい関係ではあるが。主観的に特別な関係というのは、お互いにその相手方以外に話すことはためらわれるような内容の話をお互いにすることができる関係とここに定義しておこうと思う。

 もっとも、粋に生きる人間にとっては特別な関係自体野暮で不必要な観念かもしれない。誰とでもすぐに打ち解け、すぐに離れる。人口あふれる江戸時代ならではの、男の美学というとかなりの語弊があるので、ここに「いきの構造」九鬼周造さんの「いき」であるために三つの要件を書散らしておくことにする。「いき」であるためには、①媚態を備え②諦観からくる③意地がなくてはならない。即興でみっつの要件を書かせていただいた。これに当てはまれば、「いき」なのである。

 つまり、媚態、諦観、意地が「いき」の本質であると九鬼さんはおっしゃったのである。もちろん、もっと詳しく「いき」について知りたい方は岩波書店から出ている「いきの構造」を是非御拝読あれ、でございます。

 私的な話で申し訳ないのですが、最近もんもんとなやんでいることがあります。私とある女の子の関係についてです。彼女は私にすべてを任せるというのです。私に任せた方がらくだというのです。任せるというのは物事の判断を任せるということで、シチューをつくってくれといったらシチューを作ってくれるらしいのです。そうとらえてもよろしいでしょうか!もしみてたら連絡してね!笑

 私な彼女の前に立つと戦慄します。男でなくてはならぬ気になります。私は小さい頃から女々しいと言われることが大嫌いで、ピアノもやめました。髪の毛も切りました。いや、それだけで女々しいと言われることが大嫌いだということの証左にはならないよ。短い髪が好きで、ピアノも下手くそで上達しないからつまらなくてやめたのだろうと言われそうですが。

 心の中は本当に女々しさをきらっていた反面、化粧して学校へいき人々の男に対する価値観の究極をみせてやったこともありました。つまり、形式的な男らしさではなく本質的な男らしさをみせつけてやったのです。どういうことかと言いますと、男が化粧をして高校へ向かい授業を受ければ当然笑われるのでありますが、私がその笑った相手以上に笑うのです。きさんの男性的価値観なぞ甘ったるいんじゃ、男が化粧をして何がわるいというんじゃと言わんばかりに。横暴といいますか、学校秩序への挑戦におれの男としての定義をみいだしてほしかったのです。

 話がだいぶそれました。私は彼女にしてあげられることは何でしょうか。愛することだとしたら、私は重大な不利益を被ります。また、彼女がそれを望んでいるでしょうか。望んでいないでほしいというのがホンネでもあります。観念論と実生活との利益衡量をはからなければなりません。しかし、それは実につまらない作業であり、お金とか仕事とかそんな話に最終的には行き着くのでしょう。

 だから、私は会話する際に気をつけることを最後にこの段落で書くことに決めました。ひとつは、そらすことです。会話をそらすことであります。そして、そらされた会話のないようから生まれた話を追って行くこと、つまり、のっていくことです。ふたりで創造していくといいかえることもできます。次に、相手の話を聞きつつツッコミを入れることであります。それは極端な解釈をすることです。しかし、もし相手が単にボケてきたらどうするのか。対処の仕方は2つあります。ひとつは、ボケにつっこむこと。そして、もう一つは乗っかることです。二つ目は相手のボケを黙殺することになります。それを笑ってくれるのが彼女なんだなとかいう話はここではしません。してるけど。

 しかし、ここで大きな問題があります。私が話すときであります。私の話はよくわからないといわれ、天然ボケのような話になってしまい、ツッコミ力ゼロの相手からすればただの変人の戯言にしかきこえません。だから、ふつうに淡々と話すことが私にとって一番無難ではあります。しかし、淡々と事実を呈示するだけではおもしろくありません。彼女の会話以外の物体につっこむことも、私が主体的に話すことになるとしたら、実にうれしいことなのですが。おもしろい会話をしたいときは、オチをつけることです。オチのない会話はしないことも上手な会話の仕方です。

 また、沈黙という大問題があります。沈黙の際の対処の仕方はいくつかありますが、いくつあるのか今書きながら把握できていませんので羅列して行きたいと思います。

  • 歌う
  • ひとり言をいう
  • 沈黙を味わう
  • 手を握り合う
  • 瞳をみつめる
  • それだけでいい〜♪
  • 平井堅を思い出す今何をしているんだろうと感慨に耽る

以上です。

 話すことが大事だと思います。Businessではないのだから、身近にあったどんなささいでつまらなくくだらないことでも話すこと、または文字にすることが大事だと思います。なぜならば、Businessは金に関わることしか言葉にしない。そして、その金は自らの身の養成のためにあるのですが、お金を経ずに直接身の養成を得られるかたちとして会話や文字があるからです。

 しかし、私が最終的に求めるものはお金では変えないもの。芸術性です。あくまでも、文藝が好きだし、絵画が好きであります。恍惚とできる物を追い求めています。それは芸術とは一般に解されないものにも見出されることがあります。また、受動的な芸術ではなく自らが見出すような芸術的作業を重んじるし、一億層芸術家時代と言われるけれど、ならば、私は9999万9999人を無視してでも芸術を追い求める方向へ向かうであろうし、また、芸術を介して人々が互いの芸術性がぶつかり合い、新たに芸術を創造し誰のものでもない芸術へと向かう方向での活動も、私は苦手だけれども、有りだと思います。政治的芸術というのでしょうか。もちろん理想は、相手の同意ある芸術であるし、また、少人数でなくては成り立たないかたちのものであるかもしれません。究極的に言えば、多数決の原理の成り立たないふたりでおこなうものが一番理想であると考えます。

 だから、もしかしたら、愛とは芸術なのかもしれません。愛とは死ぬことと見つけたりという前回の私の愛に対する発言もここに残して、今回の記事を締めくくることとしたいと思います。長文駄文失礼します。