アウトプット

相手の視点に立ってみよう

もし正義の観念を日本語において実現しようとするならば、あなたは日本語をいずれ話さなくなるだろう

 もう、おしまいにしたいくらいの話題。正義についての話。正義についての話はおそらく全部西洋から来たもの。西洋のjusticeかなんかを日本語に置き換える事が果たしてできるのか。西洋のjusticeが日本語にとっては勝てば官軍なのかもしれないよ?正義なんてそんな話をするのは可笑しいとは言わないが、真面目にやってる人間達は正義という言葉をつかう己に酔いしれているのであって、酔いしれるだけの観念の集中が正義にはあるのだろう。

 精神の調子がおかしい奴はたいてい運動不足にきまっているのだ。外で遊ぶ事をせずポイントの奪い合い、数が減ったダの増えただのに一喜一憂しているから精神が可笑しくなるのだ。単一化した精神は動物並みの反射能力を備えてまるでゴキブリのようにすばしっこく動く。自由の観念から逃げる。しかし、みなが自由の観念を保持すれば日本社会はおそらくさらに陰湿さを増すことにならないだろうか。其の点を考察してみたい所ではあるが、私自身面白いとも思わない。けれども、すべきであろう。超自我の命令をたまには素直にきいてやるってことをしなくっっちゃそれこそ、オレが危なくなってしまう。

 日本人は陰湿だというが、そもそも陰湿とはなにかといえば代表的な例として陰口がある。ある人の悪口をある人がいない所で言う事。さらには、ある人の事ばかり考えればその人への憎悪が高まる。ああ、そんな奴の事考えたくもないのに、考えてしまう。あの時一言自分の意見を行ってやればよかったのに、あいつの妄想の中野私は都合よく相手に処理されているのに、私の中のあいつは全く都合よく処理されていないのだ。倫理的には私の方が良しとされても、倫理が私の感情に与えるのは試練だけである。相手に対して物を言う事をあきらめる試練である。そして、相手の私が、私の思っている私と違うということ。それに耐える事はできないのである。

 ちんこってなんであんなに伸びチチビするのか僕にはわからない。海綿体がオレの興奮を何故感じ取っているのかもわからない。分からない事がたくさんあるはずなのにみんなわかったつもりになって行きているから同じようにつまらない話を永遠とする人が増えるのだろう。オレみたいに。

 私は現実界の掟にしたがい、再び舞い戻る。あの頃の私に。葛藤し変人化し孤独を愛する私に。愛するときは、たとえその状況に追い込まれた事がきっかけで愛する事に鳴っても、それは愛なのである。ところが、日本には愛という言葉はなかった。愛は戦後できたものである。戦後の日本人が愛を作り上げた。伝統のない観念なのである。

 現代の日本は戦後レジームからの脱却というが其れは、学校での成績の悪い人間や今この世の中に不満がありその不満を如何に正当化しようがそれは個人的なものでしかないという事を受け入れられない若者。

 常識という世間の掟に縛られて行きてきたからこそ、常識を振りかざして物事を解決してきた人々。常識に縛られているうちにいつの間にか、個体が常識になったのだ。顔には掟が書かれている。常識程移ろいやすいものはないというのに。

 しかし、人の細胞が3日で入れ替わるという事は、つまり病気だって3日で治るはずだろうに、3日で入れ替わるときに新しい奴の引き継ぎがまずくて病気の状態が続くんだろう。

 本当の幸せを君にあげよう・・・といっても君にはもう遅すぎるんだ。だから、忠告だけしてあげよう。幸せになりたいんだったら、人の幸せ自慢には付き合わず、さらには人が幸せであるという妄念を取り除き、人の不幸せに身を寄せて自分はこっそり幸せである事を隠して生きなくちゃならない。そうしなくっちゃ、世間という常識が頭の中で爆発して貴方の幸せもろとも自爆テロの様相を呈する事になるから。

 幸せと、本当の幸せの違いが貴方にはわかるか?幸せってのは相対的な物で、本当のという形容詞がつくと絶対的な幸せという意味になる。絶対的な幸せを追い求めた90年代。同時に人間の醜悪さも露呈させた90年代。醜悪さに絶望して人間不信に陥る00年代。そして今、人間の醜悪さを笑ってべつにいいじゃんありのままで。人間って所詮そんなもんなんだよという10年代。