アウトプット

相手の視点に立ってみよう

内的充実は常に外部の形をとるからして、精神の膠着は文章の停滞を招く

 内的充実とは意味である。意味とはかたちに託された人間の思いであり、思いを言葉に乗せる事でさらに”かたち”を人間の知覚において価値あるものにすることである。

 ところで、私と他人がマジわう事の出来る場所は相手の心の中でも、相手からした私の心の中ではない。それは完全に独立しており、私の心の充足つまりは内的充実は私だけのものである。共感という言葉はつまり、相手の言葉に付け足していくということである。相手の言葉に次々と枝を付け加えてそれをお互いに楽しむということである。だから、共感は相手へのお情けではないのだ。

 ここで男女の話をする。女はときに男に対して泣き言をいう。これは古今東西の三文小説に出てくる日本有志以来の出来事であり、男はそれぞれの時代のやり方でそれと闘ってきた。女の涙は、言葉のない男への批判と憎悪である。では、美しい涙とは何であろう。それは透明でキラキラしている筈である。北浦漁港の海面にさす朝の西日のように。

 私はある種の話にはあきた。それは政治である。彼らのやっている事は小学校でも常に行われている。しかし、先人達の法制度の前でうろたえているだけにすぎないのだ。今の日本人はただ法制度で自分のステータスを確立しようとしているだけで、法制度そのものを疑うのは非合理的である金と法制度の与える名誉にあずからんとする心持ちの人間が、形骸化した法制度の維持を担うという事態を招くのだ。

 精神分析こそ私の中で唯一私とまともに会話できる領域なのである。政治や法制度の区分はまったくもって恣意的なものでソクラテスの産婆術に照らせばその根底にあるものの脆弱さつまり、船舶品を日本国産であると偽装している姿に驚くであろう。古来日本人は形の上では西洋を受け入れ精神ではそれを拒むという受け入れ方を西洋からの輸入物にはしていたのである。

 つまりだ、私は相手の中にいる。私の内的充実は必要とされない。内的充実は枠をかたちをつくるためだけにあるのだ。その形を表現するexpressすることが私の指名である。

 なぜ1人暮らしがいいのか。それは子を呪う親の言葉に縛られないからだ。それにつきる。親というのはやはり子供に目に見える形であってもなくても影響を与えるからだ。影響とは心の共振の強制である。子みずからの共振を養う事が文化である。文化とは誰とでも共有できる大衆の秩序である。そう考えてはいけませんか三島由紀夫さん。

 だから、私は感想を書かない。小林秀雄も斜め読みする。真っ正面から受け止めればことばなんていらないんだ。そう、ぼくは鹿児島で言葉なんていらない真っ正面の景色を受け入れたのだ。何も批評なんていらないんだ。そんな景色を僕は彼女からみせてもらったんだ。そこには言葉はなくて行動の結果がある。言葉が知覚を作るという説の逆説を、つまり知覚が言葉を排除する運動に彼女は僕を立ち会わせてくれたのだ。その事実を正面から受け入れると僕は彼女に物を言う事が出来なくなる。彼女のみている景色はあらゆる言葉を一掃する為にあるのだから。私の言葉も一掃されるに違いないのだ。彼女には信念なんてものは常に外側から与えられるものなのだろう。だから褒めてもらいたいのだ。自分で自分を褒める事が彼女には出来ない。出来たとしても苦手なのだ。彼女社会にもまれて転がっていく。ただ、その社会があまりにも彼女に辛く当たってくるのだろう。私は社会とは良好なる静かな関係を気づいており与えられても捨て去るし、与えるつもりは私の内的充実の為にある。

 私だって彼女だって助けてほしいのだ。しかし、自分を助けられるのは自分しかいないのも事実なのだ。どうして自分を助けられないのに他人が助けられる事があろうか。単純な力学的説明に終始した結果である。自分とは他人であり他人とは自分なのである。彼らは鏡であり私を作り上げる。言葉でもってして、また私の直感から。直感とは相手の鏡に映る自分自身を性格に描写する事である。感覚とは、相手の鏡の前で踊る自分である。論理とは、相手の鏡を割る事である。

 停滞するもつまらない人間になるか。それとも、動きのある面白い人間になるか。どちらかである。私はいろんな事がしたい。いろんな事をみてしてやってみてそれで満足なのだ。何も文字にして表現する必要もないではないか。しかし、私は言葉を捨て去る事は出来ない。言葉とは大人である。あまりにも大人を知らずに生きていると、しかられ萎縮される。言葉を知っているとは反抗し大人をやっつけることができる。大人とは秩序である。彼らは秩序の役を果たすからかわりに金をもらっているのだ。そしてその金で、柱に金色をまぶしたり、ラインをひいてもらったりをするのである。硬直こそ大人である。しかし、子供が柔軟であるとは限らない。子供は大人以上に大人である。彼らは大人の真似をする。そして価値を見出す。しかし、その価値がどれだけのものかわからない。特に、自分を殺して生きる子供にとっては大人の秩序を受け入れ恍惚にひたっていたいが為にまたはそれが自分となったかわいそうな子供達、大人になった子供達。彼らは大人である。

 

 目を閉じる。視界が暗闇に。でも思い出す事こそ至高。至高なんだよ。