アウトプット

相手の視点に立ってみよう

言葉とは空虚な代物に言葉を補填していく作業である。お化けが恐いのは君が言葉を知らないからである。君は言葉を知らずして生きたと言えるのか、いや多くの人はいきたくなんかないんだ、ほんとうは。

 なぜならば、生きるとは不安でありまた苦痛であるから。退屈ではなく、退屈なのは君がただ怠惰な言語活動の中に身を投じることで自己の言語なりを守ろうとする意識の為せる活動から引き起こされる感情であるのは間違いない。ただ、そんな活動は否応無しに他人を出頭させた人を巻き込む形で動いていくがために、ある種の動きの遅いトロマな人にとっては都合がいいだろうが、頭の回転が速い人にとってはあまりにも退屈なのだ。ドエスとは頭の回転が速すぎる事から起こる不満の解消であり、どえむとはドエスの陰性反応であるといえるだろう。ドエムが自らを抑制する事でそれが喜びにもなるしひいてはドエスの感情を爆発させる要因にもなるからだ。その引き金を握っているドエムはヘーゲルで言う奴隷の位置にあり、主は奴隷の存在なくして主足り得ない事から展性先がみつからないのだろう。だから、主は奴隷の奴隷のような立ち位置にいるが、その振る舞いには奴隷の奴隷たる地位にいる事を認めないような圧政が奴隷に強いられる。そんな奴隷は主を観て自分たちが主の急所をつかんでいる事をしってはいるけれども、個人としては抹殺される危険の中にある為未だ集団に依存して自己を養う事しか出来ない。もし可能であるならば、私は子どもも奥さんもつくらなくちゃ社会生活なぞ送った気にもならないだろう。ただ自由な余暇と自由は時間を弄ぶのに誰か必要なのは確かだけれど。私は人の容姿には気を配らないが、デブだけはダメである。私の為せる自我よ、私のホンネをここか着たまえ。ええ、私はデブだけはダメなのだ。それは私に彼女が出来るずっと前から友人達に漏らしていた付き合う最低のLINEなのだ。そして、最初に付き合った女がなんとそのデブだったのはさっさと童貞を卒業したかったからにほかならない。私はこれを嘘偽りもなく話していると考えてくださるな。もちろん、愛情も会ったし金もかけたしこれが至高の愛だと私は直覚したのだけれど、彼女のデブが私には遠くからみていて苦々しく思い途中からボランティアで付き合っている気持ちになっていった。私は真実を語るときはあたかも、その真実をたとえ私の心の奥底を覗いてみれば真実とは言えない代物であったとしても、私はこの文章を真実であるように魅せかけようとする努力の中に彼女への愛情を汲み取ってほしいのだ。だれも、傷つけるような事はしたくない。まして、一緒にすごした人だ。彼女も苦しんだろうけれども、私も十分に苦しみ発狂寸前まで気持ちを追いつめながらも新しい女の子と楽しい日々を、其れは彼女にとって楽しい日々というのは私にとってはこの上もの愛喜びなのである。セックスとデートを区別する事なんて私にはできない。それに最初に付き合った彼女というのはいない。私は両思いになってから初めてじゃあ付き合ってみようとなるのである。付き合うとは誘いやすいしまた断りやすいしお互いにもっと気楽になろうよという意味合い以上の何者でもない。付き合う前の男女の関係というのは緊張感に満ち満ちてそれを上手くこなせない男達は女達は不満を恋愛話をいい、自らの至らなさを恋愛話という。私が彼女とドラマティックなラブロマンスのただ中にいるときに、君達は何をしていた。僕なこの精神の豊穣の海を茫洋と眺めていたし、船に乗り漕いでいたのだ。私は戦った、そして隣の部屋からニンニクのオイルのようなにおいがする。換気扇をしめようかしら。