アウトプット

相手の視点に立ってみよう

朝目覚める為の秘策。

 まず、家を出る2時間前には起きておく。お風呂に浸かり汗をたっぷりとかく。そして、学校へ行く。授業に出席しながらノートにペンと遊ぶ。意義などない、そんなものはあとからわかってくるものなんだ。この目的意識を何処に持てばいいのか分からない世の中において私が生きづらいのはこの曖昧性の中に或る。一番は、相手に何故ときく態度がなく相手の事に興味を持つ事をしないからである。興味を持たないのは自分のやる気なりが奪われる事が果てしなく辛いからである。しかし、興味を持たない理由が以上である限りにおいて好奇心もまたそうであるが、人間は衰退化し企業がぶら下げる賃金を目の間に走り回るのである。賃金を小賢しいときって捨てるわけじゃないけれど、皆が皆同時に動かなければ上が考えを変えないというのは実に、情けないと思わないか。度胸もなければ度量もない者達が上にいる。思えば、そんな貧乏根性丸出しに幼少期に辛い思いをしたからこそ今がむくわれて当然であるし格好がつけたくなるのも分かるけれども。そんな事で格好はつかない事をもはや子ども時代に会得している人間に撮ってみれば酷く幼稚にみえるのだしまた、そういう時代を過ごした私からすれば、以上のような人間を滑稽に観る事が大事なのである。それは本人にとっても大事であるし、自分にとっても大事なのである。大事大事と大事な話が続くのだが、最も大事なのは、自分の言葉を自分の本心に求めない事である。言葉は本心の周りを回りぐるぐると到達する事のない衛星であるからして、衛星の墜落を望まない事は自分を捉える上でとても大切な心がけであるように思われる。ところで、心がけというと何か目的があるように思われるけれども、心がけこそが目的なのである。そこには居心地の良い状態をつくり話しやすい環境と自分に素直になれる言葉を選ぶ選択と判断の力が内包されているなどと私が言ってみる事で私にどんな反応が返ってくるのか。私に話が思い浮かぶたびに、私はどうしても私自身について何もない盲点をみいだす。人間は今或る景色をすべて見ているわけではない、盲点といって視神経野とおる箇所がありその部分は網膜があるのかしらないが、とにかく光を取り込む機能がなにのでみえていないはずなんだけれども、という話だ。脳みそとは観念のことであるとわたしはいいたいのだ。脳みそに根拠をもとめれば必ず物にたどり着く。風景だって物である。しかし、同じ物である筈なのに或る人には悲しくみえたりある人には喜びにみえたりその風景を言葉にしてみろと言ったときに同じ言葉が出てくる事もあるだろうが、やっぱりちがうはずである。感動だってそうだ。強弱をつけるのは一体なんなのか。それは観念であるのか其れとも肉体的疲労が引き起こすある種の諦めからきた主の到来への歓喜なのか。言葉を追っていく際に私は随行取材はするけれども私がしゃしゃりでてはいけないのだ。それは、他人をして私を語らせるというひとつの他者の冒涜をしているのだし、また、ときには沈黙を埋める為に他者への冒涜をあえてするという罪悪に手を突っ込まなければならないときもあるものなのだ。反対の論陣を張る事で相手が言葉で何を隠しているのか丸見えになるという手法を使いすぎれば私の言葉の裏にあるのは相手の言葉の肯定ではないのか。それを、相手が好まないのは相手が自分の言葉の所有権を発動するからであるけれども言葉にそもそも所有権もないし自分の言葉に何か高意味を持たせたり権威付け用とする小賢しいレトリックが通用する世界を信じていたいという大人の態度からまた社会的な秩序という弱さから来る物であるとしたら何ら詭弁を弄する人間を愚弄する事も正論を吐く人間を持ち上げ褒め称え崇める猿真似をする必要もない。完璧な人間などいない事を己のうちに認めまた其れ固めに被る被害を己が引き受けるという覚悟とまた諦めがあればこの世の中もそんなに息苦しくもないだろう。取り返しのつかない自体など何一つないわけじゃないただ取り返しのつかない事をされた人間の認識が取り返しをつかなくさせるのだ。開き直りとも思える発言の中に人間性があるのだし虐待を人間だというのならば私も人間であるから虐待する事もあるのだと言語は私に己の未来を想像させる。論理的一貫性という分かりやすさ明晰さと人々の参入のしやすさは懐の大きさというよりもその人間の持つさみしさ、そのさみしさを度量の大きさに帰る変換機というなの都合の良さや習慣を発揮する事が私には堪え難いのである。それにしても、私という人間について私は語り得ない。私はただ周りから貼られたレッテルというオイルを洗い流しさっぱりと瀟洒な気概を持って日々を過ごし左うちわにさっぱりとたゆたうだけだ。意味を知りたいのならば、意味とは何かを問いつめればいい。意味を説明してほしいのならまず自分が理解した事を提出しなくちゃならない。「こういう意味でしょうか違うのならばおっしゃってください」この言い方はよくないが、ただこういう気持ちでいなくちゃただのロボットになってしまうというものだ。ロボットになりたがる人間があまりに多すぎる。結婚にしろ娯楽にしろみんなで楽しもうという気持ちの意味が分からない、みんなで楽しみたくないから娯楽は種類があるのだ。うるさいというかもしれない。私の言う事をきけと、常識だと言い出す人が出てくる。其れこそ社会だと老人がわめきだす。そんな時代に私は生きているのだろうかと思っていたがどうもそうではない、わめきだす人間の方がまだマシだという時代だ。じゃ、今の時代はどんな時代か。冷笑の時代である。言語を戦わせる事なく認識で相手の存在を逆転させようとする超観念的な時代である。何処に唯物論の入る隙間があるのかとすれば、健康である。超観念的な時代の罠はそれが、インターネットの発達により思いもかけない物がない生活を送ってきた者達の言葉つまり、貧乏人の貧乏根性が貧乏人でない人達に届くようになったというところにあるのは間違いないのである。彼らに知識を与えたする場、貧乏人が与えたのは彼らの悪知恵でしかないのだ。知恵とは何かといえば、とても身近なはずである。遠い知恵があれば宗教だけれども宗教の根源に人間の心があるのだ。では、心とは何か問うのが現代である。心とは感性であり感覚なのである。感性なり感覚なりを理性がどうしつけるのかをかんがえてみてほしい(ここでかんがえてみてほしいと私が言った相手は私自身で敷かない)それが教育だと先生達はもっともらしい事を疑わずにその場しのぎでその仕事の疲労と議論の不毛さから利益の産まれない事を見越していうだろうけれど。つまりは、文章が何故書けないのかというと相手の気持ちを察する事で悩んだ事がないからだし相手の苦労を身につけた事がないからである。また、相手の苦労をくろうとみなさずに否認する態度が文盲には見受けられる。だから、文章を確認減はお気楽ではないその背景には辛酸を舐め世の中の酸いも甘いも味わった人間の苦労が必要なのだし其れをかって出た者こそ会社人間のつまらない営業トークを笑ってきいてやる事が出来るようになるのだ。私は私の過去が発酵するのを待たなくちゃならない。どんな形になるのか私自身も分からない。わからないのだから、考えても仕方がない真実を追い求めても仕方が無い実践的に文章を書く為の覚え書きを作成する事が私の目標である。何度も言葉を変えて同じことを言う事こそソフィスト流の教育であるし、相手を非難したければ相手と同じにならなくちゃならないとは、果たして幸せかどうかそれはまだまだ先の話である、幸せとは何かを結論づけたい背景には死への欲望を見出さないない人間はまだ言葉の内実を信じている。なぜなら幸せを早急に結論づけたいのは、幸せを今すぐに実践して幸せが人生の終わりにくればいいという気持ちから今の情況を幸せだと正当かしようとするのだから。おそらくは幸せよりも、幸せと言って死にたいのだろう。感じていないのにいずれ感じるだろうという根拠もなければそうもならないだろうという空虚な確信がある。とりあえず溺愛の言葉でその場を凌げる事が大事だと思っている。大した山場でもないのに一人で盛り上がる人間がいるように。

 議論が大いに錯綜し私のなかの他者がよみがえってきたところで私は私に批判的な言論を施す事にしよう。私は世の人々がなし得ない事をする事をなし得る能力の証明に躍起になる人間である事を私は私についてそう思う。私は実に人と違っていたい人と願い実行し其れがかなえられないと死にたくなる人間なのだ。其れが不幸の源泉であるし傲慢な態度を産むきっかけである。其れが幼少期の私の生活環境に根拠を求めようとする人たちの好きそうな根拠さえも飲み込んで、例えば兄弟がいなければそれだけ親に溺愛され好きな者を手に入れ自尊心のかたまりだからという言論である。これはつまり、遊び相手もおらず親の言葉を真にウケ其れを信じる事で自分という人間の存在の保護を親に求めていたのだといいかえる事ができる。できるということは、とっくのむかしにおこなっているということだ。しかし、意識の上で其れが実行される事はなかったし記憶にないというときに無意識という概念を持ち出す。しかし、無意識さえも否定し記憶や経験は形状に宿り形状は語りかけてくる物が語りかけてくるというほかに、私は自己の鍛錬も信じない。分析は万能ではない。それは過去に言葉を与えて生き生きとさせる事が出来ても未来に向けて何かを生き生きとさせる営みとは言えない。そもそも未来という観念自体が否定されるべきで、未来は私の現在の一部であるし過去は私から過ぎ去り現在を転がす大いなる力である。現在において私は直感の従うままに未来からも過去からもその統一性の要求を退け、また、現在におけるとうい雨声の集団的幻影を信じ沈黙する態度を退け、やっと文章が書けるのだ。書くとは世間からはなれ、空気の良い場所に生きる事に違いないのである。其れが認められた時、人はまた世間から逃れる為の次なる言葉を見出していく物なのである。言わば、残念な事に私は緊急回避的な手段として過去の言論をよみがえらせているのだ。それは私が未来の為に苦労した遺産であるしまたその苦労を現在の私は享受している。過去につくった家が未来の不安から現在の私を保護する家として使用しているだけのはなしである。遺産を食いつぶした時初めて人は発狂するのだろう。統一の整合性よりもその方向性で話をした方が空気の通りは良いのだ。では、私の方向性について話をすすめていく事にしよう。

 私の方向性なんぞ私が語っても其れがかなうかかなわないかを精神力の有無に言わせる事は、現代においての最大の自己欺瞞である。しかし、忠誠という事を言えば自己欺瞞でなくちゃならないかといえばそうではない。折衷点とはもっと、力強いものであってそれは弁証法の闘いである筈なのである。三島由紀夫が折衷を嫌いながらも弁証法的な論理で自己と世間の文脈をつなぎ自己を少し優位に立たせる事で作家生活の情熱を乗りこえたと私はいってみたところで、その私の言論の正当性は批判的言論の中でやっとこさ生きて輝きを取り戻すのである。一人でいる事が苦ではない、一人でいる事は喜びであるしまた、逃げである事も確かなのだ。逃げるときは思いっきり逃げなくちゃならない世間の言葉を身にまとってはいけない。そんな苦労を背負っていては逃げたとさえいえないのだから。また、逃げる事の善し悪しを決する事もよしたまえ、立ち向かった先にあるのは自由か死かというあられもない荒野である。その荒野は人の死に場所としてはあまりに滑稽であるしまたあまりに乾燥している。湿潤な場所で死ぬ人間は甘やかされまた自己中心的な愛情の世界の中夢見て死ななくちゃならない。私はどんな死に方をするのだろうかという俗悪な疑問を持っても仕方がないのだ。私は死ぬときは死ぬのだし、生きるときは生きるのであるとカッコつけてみたところでしょうがない。私は抽象的至高を信じない分けないもいかないし具体的事実を歪めることを楽しんでもいけない。具体的事実とはその当事者の主張する主観的事実に他ならないではないか。だから裁判所では事実を争うのではなく弁論を争うのである。

 感覚を養う事を考えてもいけない、感覚とは捉える物であるし何も偽って作り出す挨拶に余念なくという訳にはいかないのである。つまらない物見飽きた物聞き飽きた事に、飽きたと言うのが私の生き方であるしまた風流を忘れない破壊的な心であろう。およそ風流とはあるものをないといいい、ないもののあまりのなさを言葉にするということである。つまりは、人がみるようにはみないということはつまり人についてよくわかっているとうことである。日本人の集団的メンタリティーにおいて、人の観るように私も観ていると主張する必要性をあまりに感じるのは、それは風流な国民性が近代の国家主義的な世界観を受け入れるためにいうのである。それが、消極的な折衷である事は間違いない。個人よりも集団のルールの方が優先されている。まるで中世である。絵に描いた中世の時代である。異端なものは、より多くの構成員をもつ異端なものと闘争を繰り広げる。言論によりではなく、金と性と食のために。娯楽のために。娯楽とはつまりは、国家を養い国家の正当性に盲目である事を主張する為にある。つまりは、言論でもって限界でありまた宗教のない国民は、得てして暴力的にならざる終えない。野蛮とはつまり宗教をもたないことである。なぜならば、宗教をもたなければ言論に重みがないからだ。宗教も倫理もない人間が服従する為に自らが用いまた用いられるのは、肉体的な暴力なのである。商業主義的なプロテスタントの国アメリカが銃を保持しているのは、彼らが宗教を信じていない事の証左である。その距離感に善し悪しをつけるのは、商業なのである。倫理ではないのだ。倫理は商業に依っていくらでも改変が可能である。また、風流さといってもいい。現在の感覚で楽しく生きる為には皆と違っても構わないという。しかし、絶望してはいけない。倫理に宿る神を私は主張によりではなく対話によってよみがえらせなくてはならない。それが、批判的な自己である。自己は他者にも批判的であるがその批判的な態度は自らを融解させる。批判への批判と言う無限の否定生を。何も確かな物がないという嘆きを一流の風流とすることを。其れが、政治的に利用されれば如何に酷い自体を招くかを。いい気になって風流な日本人の感性は世界一だといってみたところで、実に情けないを通り越してある種のやるせなさと彼らと同じ日本語を話す私は、憤りさえ覚える。一体全体、世界一の感性をした人間であるとうぬぼれることが喜びである日本人の何処に感性が宿るというのか、うぬぼれがある種の力を持つ事を私は認めるが、力を感性というのは酷いを通り越してバカでもないアホでもないましておめでたいわけじゃない、あまりにも立派なのである。それは誰もいないところで俺は立派な人間だと言っている事となんらかわりないのだ。売れているからいい車であるとは限らないという事だ。人が多いから強い訳でもないのだ。数は説得力ではなく相手に不安を与えるだけだ。不安を動機に動く事は負けである。問題は質である。量では補いきれない、力仕事では補いきれない質を獲得する事。しかし、質を手に入れようとすることもまた滑稽である。質は個人の闘いの中に或る。ただ私の言える事はそれだけだ。

 森の繁茂する夏が精子の香りを引き連れて私の前に現前する時、私は共との短い共感を思い出す。ただそれだけが、私の心残りである。