アウトプット

相手の視点に立ってみよう

死んだように生きる。

 強迫神経症のうちなる心は父なる権威の不動なる姿に感服して自らを権威にぶら下げる痛みを伴った服従を自らに強いることで安逸を得るという方策を取って現在を快適にすごそうという営みをとる。痛みを感じているにもかかわらず、それが安逸で快適に現在をすごすことになるおかしみが強迫神経症にはある。無我夢中で働く人も硬直した思考がもたらすものだから、そうである。何処かで九鬼周造が社会組織に置いて自由に振る舞うことこそ風流であるという旨のことをいっていた。私は彼の随筆がたまらなく的を得ていて好きだ。めんどくさいから本当はしたくないけれど「いきの構造」の著者であることだけ書いておく。どうも商業的なにおいのする文章が鼻についてたまらないのだ。いたずらに不安を煽りそしてものを買わせる態度が気に食わないのだ。だからすべてのhow to本の形式を私は受け入れたくないのだ。本で言えば土方である。一行人を魅了できるタイトルをつけることが出来ればいいのだから。芸術からはなれた生活をしている私には、どうもこうも怨念も妄念ももたずに暮らしているのだから。いろんな人間なんて抽象的な言い方をして何も具体的な話がないから彼女は僕に愛想を尽かすのだろうか。僕ははやく逝きたいのだ。死んでしまいたい。恋破れて我死なん。我は死んでも、自由は死せず。自由は受け継がれていくだろう、ざまあみやがれ、貴様が俺を殺したところでお前の憎む観念は受け継がれていくのだ。貴様の見当違いの殺人がいかに滑稽な英雄伝であるのか。貴様は貴様の憎むものに食われるのだ。後世のこったのは、殺された方の言葉だった。

 ああ、僕はこうやってお金にならない思考を巡らすことで幸せから遠くなってどこを目指していき抵抗というのか知らない。元彼女のTwitterなんて発見されなければ。私は彼女を憎んでしまう。悩んでいる様子がないからだ。私は悩んだのに、彼女が悩まないとは私には許せないことだった。優しさのない女だとおもった。顔は日焼していて、外仕事をしているからだろう。彼女と話すのは楽しかったけれど、歩くのは苦痛だった。僕も彼女を酷い目で見ていたのだろう。でも、この辺の話をすれば僕はまた狂気に走っていくからもう考えない。想像しない。その人について書かないことで、ストップできる。安定する為には牢獄に観念をおさめる必要がある。学校の教室資格試験の学校。すべてにおいて、洗脳という教育を受けて覚えることを強いられて真実を追い求める思考の方法さえ、それさえ教えられたものだというのならば自由じゃないという考えが僕には浮かんでくる。僕は自分で考えて自分で答えを出す意外に納得がいかないし、納得のいくかたちをとっているとはいえない。ある種の貧乏人が親の金に手を付けることを酷く嫌うように、私は私の心が汚い下賎な人間達の金儲けのノウハウの為に奪われることを非常に恐れているのだ。苦労をした人こそ本当に設けることが出来るのだろう。とはいってみたものの、苦労など人間はしたくないしそれなりに苦労をしているのが人間だから私がいかに安逸な生活という退屈な地獄と責め苦に耐えて利益を生まない生活をしているのか誰も理解しない。親も祖父母も私に電話しなくなった。遠慮というのか、成長というのか。思考というのは決して論理的なものであるはずがない。論理とは口うるさい人間が噛み付く場所を心得てあらかじめ噛み付く場所にプロテクターをはめる作業にすぎない。一方で私は言葉を紡ぎだすことで貴方に言えなかったことがたくさんあるのも知っている。私が安定するまでその手の話を私に仕掛けてくるのはやめてほしい。私は貴方に弁解するだろうから。嘘の弁解をたくさんして私は多くを貴方に約束し手をそれを実行できずに貴方を幻滅させることになるから、とにかく私に将来の話など私は今年できる筈がないのだ。こんなに苦しい一年を私は耽ることなく過ごすことはおそらくは無理だろう。多くの労働者が多くを犠牲にして社会があるとして、社会が私には地獄にしか見えない。怨念の塊である。関わりたくないのも当然である。何故だろう。外へ出なくてもネットで会話することを心得た私たちへのひとつも罰かもしれない。その点田舎は幸せなのかもしれない。

 なんというつまらない結論だ。俺はここ数年喜んだことがない。頭が熱くなったことはあるけれども喜んだことはない。受けいられることに喜びを見出すこともなくなった。ある意味奴隷からの解放が生じたような心持ちだ。しかし、誰も私をみていないからどんな悪さもするしお金だって払っていないし逃げる気持ちだって人一倍多い。それに依る未来の私が苦しむことがどうもかわいそうだともおもわない。現に私は未来があることが渡井に余りに荷が重すぎ手渡しは今最低のところにいる。これは世間が私に仕組んだ単純な仕組みから来る痛みだということに気づかないわけじゃない。ただ、この痛みを受け入れなくては私は世間から本当に浮世離れして何をしでかすか分からず、世間の中に敷かない幸せを放棄することになるかもしれないと考えるからだ。だから、僕は今どんな三文英雄も世俗的な愛の物語をみても泣くかもしれない。かもしれないという、推定の域を出ないのは、私にまだやっぱり反抗心があるからなのだ。金で物を書く人間に泣かされるってのはバカみたいじゃないか。