アウトプット

相手の視点に立ってみよう

立て直す

 まずは、私がネガティブな意見を言わないことだ。弁論においてわざわざ自己否定すれば相手の突っ込む力を利用しないことになってしまう。一人語りとはつまり自分の異常性を暴露することにある。

 

 まずは、私が自分の性格を知ろうとも分析しようともしないことだ。何を対象に生きていくべきなのかと考えたりすることもやめてしまったほうがいい。考えれば考えるほどに私はこの世界のあら探しを始めてもしまうのだから。

 かといって、感受性は失いたくないけれども相手の話をしっかり9ことに耳を傾けるべきである。かといって、批判をしないのでは私はこの世界の提供するナイフを片手に殺人を行いかねない。

 ということなので、私がするべきことは一体なんなのかわからないままに時間が過ぎていく。私も老いていく。楽しいことも、ただ、新しいだけでは気が済まなくもなってきた。

 

 楽しいことは、本を読み物語を書き絵を描き写真を撮ることだろう。他者と交わり会話することでかろうじて私はコミットすることができる。私はもう相手の気持ちを読むこともない。分析の対象を変更させるべきである。何かが起きた時に人はすぐに分析を行い、紙芝居にしてしまう。そのままの事実をそのままに受け入れることはできなくても放置しておいたほうがあとあと楽なものである。

 

 昔の私は、いい例えが見つかればそれで納得したものだ。おそらくは社会に足を踏み入れていたので、法律の勉強を通してではあるけれども、また、むやみやたらに見知らぬ他人と交わり違ったのも、頭に詰め込んだ世界を渡り歩いていけるだけの地力を備えているという直感からであった。今その直感は、私を崩壊させるに至っている。私を外へ向かわせた諸々の動機を一つのことに仕向けることにしたのである。それこそ、良い夫のようは方向性ではあるが、私は何かを成し遂げるのに誰か伴侶なしに一人人生を歩んでいくことはできないことに気がついた。

 

 内的な直感をないがしろにした理性と道徳の家に生まれた私は兄弟もいない中で育ったわけだ。人との交わりも馬が合わない誰も私の道徳観を理解してくれるような人間はいなかったので、道徳を放棄した。その道徳によって今でも苦しめられている。たとえば、私のような人間は外へ出るべきではないと私がひとりそう思っているのだ。しかし、どうしても私一人の考えであるとは思えないのだ。他社もそう考えているだろうし、またそう考えるべきであろうと思っているのだ。つまり、私にとって他者がいないのだ。話をできる人がいないのだ。自由に話ができる点だけ自らを自由に思っているのだろう。大したことはない、ラカンは自由をせせら笑った。自由は享受できるものではない。ただ瞬間に自由を手にしたと言ってみることができるだけだ。たしかに、手にはしたろうけれども、永遠にそれを保持するなんてことはできない約束なのだ。自由を持ち続ければ精神は荒廃し身は滅びるであろう。

 

 自由を目指した全ての哲学において、私はその自由を内的な感受性に宿るというのならば、人からの非難さえ気にならない、思い上がりにいたるように思われるのだ。人はなぜ非難するのか。私が汚れたものだとけなしていた行動を私自身が取ることで、私はもう何もかも批判することができなくなり、自分の思い描いた通りに罰を受けることになる。単純な話だ。私が相手を映し出した鏡はそのまま私自身になるのだ。相手を良い人だと思えば、相手は良い人になる。つまり、自分はいい人間であると人は自らそういうべきなのだ。評価や評判を気にしないようにするためには、自ら肯定する他にないのだ。何が自由で何が不自由であるのか、知るべきである。私の精神は冒険をしなくちゃならない。精神だけでも冒険をしなくちゃならない。行動は狭められいてる限りにおいて。自分自身をわすれさらなくちゃならない。大切なことなんて全てすてさらなくちゃならない。その代わりに身分が保証されていなくてはならなかった。しかし、私は身分の保障のために精神の自由と引き換えに彼女を失うことがあり得ると考えると私は悲しいのだ。悲しくて仕方がないのだ。彼女への愛を私は一生をかけてでも償っていかなくちゃならない。