アウトプット

相手の視点に立ってみよう

私は何をしているんだろう

 タイはいいところだった。それだけ。日本の話は何一つないし、私の精神は非常に安らかだった。私は逃げたいのだろうかと思う時がある。タイへ行った後逃げる場所はどこだろう。放浪こそ人生なのかもしれない。それは誰の人生にでも当てはまるわけじゃないというところに私の個性という病があるのかもしれない。誰もが納得のいく個性をいうのなら私は持ち合わせちゃいない。持ち物が幾分多すぎる、何もない方が余程気楽である事も私の思う事である。勉強ができる人間は幾分貧乏で、金持ちもモトをたどれば貧乏人である。その卑しさが趣味の悪さに現れているのだから面白い。金があっても、結局は使い方を知らないのだから。面白いというよりも、私を表す言語がこの世にあるのかさえ疑問になってきた。私の筆記体が私を表している事を私は疑いもしない。キーボードに打ち込む均質で無機質な形の文章が伝えるものを私は信じる事ができなくなっているのかもしれない。手紙こそ、本心が現れていると言えないだろうか。私は彼女が好きであるが、彼女からの愛は十分に感じるが、私の浮気性が仕方ないことに、私の予感が、仕方ない事に働いているのかもしれない。彼女について私は束縛もしなければ。それで、彼女は苦しんでいるのかしらんと思うと、細い目をしてタバコを吸いたくもなるものだ。ああ、懐かしい。タバコを吸っていた時の私は最高潮であったけれど、体は最低であったという相関関係が人間である。単純である、人は生きて死ぬだけだ。それだけだ。シンプルにできている。人生を、なぜかき混ぜるのか。退屈が、苦痛が、快楽を求める快楽が。そうさせるのだろうか。苦痛を避ける快楽が、日本人の精神構造に与えた影響を私はどう思う事もできない。普遍がこの世にはない。占いにはない。それならば、目指すべき北斗七星もないのだ。私の北斗七星は死に向かっている。死ぬ時に最高潮へ経つにちがいない。そう信じて、だらしなく生き延びるのかと考えると私は実に死にたくなる気持ちになる。今死ねば。今死ねば、私は幸せかもしれない。しかし、残された人は不幸せかもしれない。残された人が幸せであるように、私は嫌われなくちゃならない、どうしようもなくバカで鈍感で、つまらなく退屈で不快の種である私が、この世から去れば、泣く人もあろうが。引き留めてくれる人もないし。なんと、愉快な事だろう。なんと、悲しい事だろう。悲しさを僕は持っているか。感動が、感情が、感じられているか。感じたくないというのも本当のところだ。私と彼女の間にある溝は、社会が作り出した。それを乗り越えるのは、私の意志であるし、また、彼女の意志でもあるのだ。それだけの話だ。文体を変えるのに。私は、大いなる経験が必要になるのだ。そうじゃなくっちゃ、ただの天気予報になる。