アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 普遍的な文章があるのか。いったい文章とは何か。私はこれを考えることが最近多くなってきた。おそらくは私の記憶は水のように蒸発し日が経つに連れて忘れてしまう。こういう水も入っていたことがあるんだ、この小さな頭の中に、それを忘れたくない、同じものを桶の中に入れてばかりいることが退屈だから、言葉にして葬り去るのかもしれない。およそ言葉が何なのか私にはわからない。明瞭に書かれた文章は明瞭な意識を保証する。しかし、それは数分も経てば色褪せる。その人から離れたものになるのだ。何を書いたのか、完全に思い出すことはできないのだから。およそ私は完全なるものへのつい今日の激しさから、何もできないつまらない退屈な人間なのだろうと思うほどの私は疲れているのかもしれない。疲れていると、体は休もうとするので、どんなに理不尽なことをされてもそれを正すだけの力はなく、理不尽を理不尽なままに置いておくことが疲れないためには必要なる技なのである。文章を書く意味について考えることがある。自分はこういうこと考えているのかということを明瞭なる一文に込めることは実に難しい。明瞭なる一文は私だけではなく、すべての人に対して明瞭でなくてはならないのであるけれども、相手の目が節穴であるのか、私に文章がおかしいのかわからない。人間の争いや競争はここから起こるのであろう。互いに、わかってもらおうとするからいけないのだ。ちがうことはちがうといって、距離でも置いてりゃいいのだ。そして、僕は孤独に生きて変な趣味を持ち死んでいくのだろうと考えると、やっぱり、つまらなくてもいい、退屈でもいい、束縛されてもいいから、何か孤独ではない場所にいたいのである。一輪の花にはなりたくない、100万本の花の一輪になりたいのである。そうして、個性を失ったすべての花が多くの人に鑑賞される。実に、情けない。自分を殺したい。こんな言葉しか履けなくなってしまった私の文章を誰が読むだろうか。私の文章への態度が良くないのだろうと思うのだ。私が悪くなった。文章が悪いのでは決してないところがあまりにも憎らしい。

 

 どうすればいいのか知っている。しかし、その道を再び歩くことに飽きた。どうせなら、アホになってもいいから別の道を歩きたい。しかし、それがイバラ道であるように思えてならない。そう信じてやまない。ああ、それなら、ゲージに入れられて独房に入れられて鉄格子から与えられるパンを食べていたほうがマシだ。情けなくも鉄格子の間から細くやせ細った腕を伸ばし相手に食べ物を懇願したほうがマシだ。ああ、情けない。だから、僕は死にたい。