アウトプット

相手の視点に立ってみよう

アウトプットとタイトルに書いておきながら

アウトプットできていないのか、インプットしていないのか、非常に微妙な問題だ。どうでもいいやもう、なるようになればいい。書くこともない。なぜ書くのか。憂さ晴らしだ。何度でもやればいい。失敗ばかりだ。何が悪かったのか。思い入れがないからすぐに捨てられるのだ。僕の飽き性が問題をまた起こした。いつものことだと、言ったとしてもそれを僕はもう自分はダメだという論理に持っていけるほど強くもない。自分を責める人間は必ず逃げ道も用意している。だから自分を攻めて人を責めないでいる風に入られる。その感覚さえ偽物かもしれない。否定するだろう。都合がよくないから。また一面から見ればそう見えなくもない。しかし、そう物事を見たからといってどうなのだ。問題は僕にある。つまり、僕が答える義務がある。法律には規定されていないが、暗黙知の中で、物を書く上で僕が考え描写する必要がある。私のない奥に秘められた気持ちを、どうして人類一般の事象にすっかり当てはめられるだろう。わからないは拒否だ。適切な答えを求めているわけじゃなに。しかし、人は装いたがる。失言を恐れる。その恐れが私の口を塞いでしまっている。考えるより言葉が先に出る。言葉で考える。これこそ、明朗な人間にあるまじき行為だ。ネットでは罵詈雑言もあれば独り言もある。価値のある文章を見つけようと躍起になるのはやめたまえ。検索して君の見つけた言葉は一体誰が発した言葉だろう。誰だかわからない。論理はもう通用しない。今あるのは、ただ考える力であろう。その場で物が言えるかが大きな課題だ。つまり、いろんな問題に対処しなくちゃならない。その時に台本に書かれたセリフでは対処できないのだ。僕は一体、どうしてこうもおかしくなったのか。僕のどこがおかしいのか。僕をおかしくさせたのは誰で、僕をおかしいというのは誰なのか。僕自身だ。他所に答えがあると思えない。しかし、他者との関わりなしに自己を知ることもない。自分のことなど誰も知りたくない。できれば嘘をつきっぱなしで生きていたい。ありのままの自分を受け入れてくれる存在を疑っているからだ。擬態は自由のためにある。ありのままの自分さいつそのネームプレートが剥がれ、中身を失い形式だけになるのかしれたものじゃない。