アウトプット

相手の視点に立ってみよう

コラム

 意識を頭から遠ざける。手に集中させる。できるだけ何も考えないようにする。末梢神経が感覚に訴えかけてくる情報を掴む。できるだけ使い慣れたワードを多用しないように心がける。日本語の文章はできるだけ短いほうがいい。それもおそらく日本語は長く聞いていると疲れるからだと思われる。濁音は耳障りだ。比べて英語は文章が長くても流暢で苦にならない。物足りないので議論が始まる。

 

 嫌なことは辞めればいい。とにかく今やっていること、今の思考体系を変えることだ。それなしに奈落の底のどん底の気分を捨てることはできないだろう。ある一定の主義主張を持つことの凄さを見にしみる。彼らは多用的な面を見ないで一点を見つめることで自己の主張を完遂させることができる。ゆえに彼の言っていることはある分野では正解だろうが、場所が変われば品変わるで、移動してしまえば何の役にも立たないことが明白である。ゆえに、欧米は植民地を作り自らに住み心地の良い社会を世界に蔓延させたのであろう。

 

 トランプが大統領選に勝った。方々で冴えない風貌の男が日本経済の今後の見通しだとかこつけて私見をばらまいている。国民は自分で調べないのでいつも損ばかりさせられる。調べる時間の余裕もなければ体力もない日本国民にとって、この国においてやる気のあるものは、出る杭は打たれるの精神で根絶やしにされ、何も考えないおちゃらけな人間はベルトコンベアーから降りようとせずそのまま社会に流れて働く。それだけの話なんだ。 

 

 僕はあまりにも社会について話しすぎる。僕はしばらく沈黙することにしようかと思う。どうも、社会について話すときに僕は無理をしている。毒舌というか、僕の言っていることが理解されないことに苛立つし当然だとも思う。それに、ここで社会について何か言ってみても何も始まらない。ジョンレノンが、人生について考えていないとき本当の人生を歩んでいるんだよと言ったように、ある出来事について考えていないときに人間はそれを遂行しているという事態が起こり得るのかもしれない。私には金はないが時間はあるのだから大いに勉強することができるのだ。勉強する時間程貴重なものはない。どこかでバイトして小金を稼いで好きなものを買い旅行三昧も悪くはなかったけれど最近は飽きてきた。どこへ行っても心の旅、心ほど広いものはないのではないだろうかと思うようになった。いつも思うのだ。この地球という空間的広がりと、心の想像力ないし推論力のどちらが広いのかと。空間的広がりといえども、認知に関わるので同じ場所にいても取り込む情報が少なければ空間は漠然とのっぺりとした絵になるが、見る目があるとそこには深淵があり時間的な広がりがある。

 

 僕ははっきり覚えている。大統領選前までは新聞はクリントンが優勢であると報じていた。しかし、結果はトランプが勝った。トランプの支持者は貧困白人層らしい。貧しい人間の票を集めたトランプを、メディアはこけおろした。彼が勝ったと知るや否や、トランプは人が変わったようになり。また、メディアはトランプを叩くことで立派な大統領を育成することに尽力することになるだろう。彼らにそに気はなくとも。クリントンのやることなら報道しておけばいい。なぜならイメージがクリーンだから。しかし、トランプはダークな印象がある。父親のような威厳もあるが、それを嫌う時代背景がある。メディアは彼の発言を捉えて彼を叩くだろう。そして、トランプも次第にまともになり、アメリカ歴代大統領で最も戦死者を出さなかった大統領としてその名を米国の歴史に残すことになるかもしれぬ。彼は軍事費の削減を掲げているからだ。しかし、それも彼が政策を具体的に実施するかどうかだ。とにかく叩かれてもいいから動かなくてはならない。厚かましいとは賞賛である。

 

 僕はいろいろ止める習慣がある。一つはネットサーフィンだ。頭が疲れる。知らない情報が大量にあって必要な情報がすぐに頭に出てこない。頭がいい人というのは知識の幅を限定させることですぐに提出できる人のことである。すべてのことについて考えて話そうというのは無理である。老人ほどおしゃべりなのも、彼らの頭がもはや情報を受け付けぬからだろう。頭の中の情報は不意に出てくる。だからメモが必要だ。そのためにツイッターをするのならわかる。しかし、人とつながっているような擬似感覚を与えるツイッターの効果を楽しんでいるようでは彼らの頭は固くなり自らの自由を狭め、従って、彼らの感性は鈍磨し。まずい食事を美味いといい。つまらぬおしゃべりにうつつを抜かして時間は過ぎていく。そして日が暮れて今日も平和であったと眠りにつく。女の生活に男が縛られるという現代の状況は実に男にとって不愉快でならないだろう。スポーツの世界では男女がはっきり分かれているというのに。労働の世界はそうではないのだ。男女平等を訴える人間がいれば問いかければいい、なぜスポーツの世界では男女別種目に分かれているのかと。それも喧嘩腰に言ってはいけない。どう答えるのか、本当に知りたいのだ。

 

 今日も過ぎていく。日に日に僕の細胞は元気を失っていく。でも僕の心に火の絶えることはない。僕はふいに元気を取り戻す。あることを書かなくちゃならない。奈落の底へ向かっていく文章ではなく。取り出すような文章である。その方がいい。拙くてもいいから書き続けなくちゃならない。その義務感の所在を僕は知らない。知ることができると思えない。答えがありすぎるから。想像力と言ってもパターンを把握すれば記憶から取り出すことに違いないのだ。逆に言えばパターンの習得こそ想像力の源泉だと言えるのかもしれない。どちらにせよ僕の言っていることを一体誰が理解しよう。おそらく、私自身を理解してくれる人を求めているうちは私は不快な気持ちを抱いたまま苛立ち不幸のままに生活を送り肌は荒れ顔色悪く唇はカサカサで目は死んでいる。

 

 本当は書きたいことなどないのだ。書けばなんとかなると思っている。おそらくなんとかなるだろう。それは慰謝だろうか。嘔吐であろうか。思っていることがだんだん違ってくるのだ。セックスという言葉の持つ官能性もなくなりつつある。私は老人のようだ。ゆったりと生きている。良寛が人気だと聞いた。僕は良寛が人気である直前に良寛こそ今現代に生きる人間にとって親しみを覚える人間は、彼だと思った。なぜなら、そのボケている良寛。お金はなくとも楽しく生きている良寛。子供が好きだったそうだけれども、子供心を失わずに人と戯れることができた良寛。ビジネスばやりの世の中で銭稼ぎに血眼になる人間のようす、生活にあくせくしている人間の様子に、皆疲れ果てているのだ。貧しくたっていいじゃないか。金持ちだっていいじゃないか。それを羨む心。蔑む心。それこそが不幸の源泉じゃなかろうか。金持ちだって貧乏人だって辛いんじゃないだろうか。だからと言って、中間層は何をしているのかというとユートピアを信じている。なんと愚かな世界だろう。そして、愚かな世界こそ美しいのだ。