アウトプット

相手の視点に立ってみよう

考える

 私は考えているのか。考えているが行動はしない。行動が私にもたらすのが破壊的内容を含んだ報復攻撃であるのだ。私は私自身を教育しまた鞭をも振るう存在であると確認したいがために私は行動に破壊のみをならせるのであろう。今聴いているラジオは私にとってはその内容が問題ではなくそれが促す私の行動に効果を見出しているのだし気持ちがいいと感じているのだろう。すべては現象である。だからどうした。世紀の大発見。叫んでみても聞く人おらず。まして金を払って聞くものは皆無。私は別段このようにいきたいと望んだわけではないが、こう生きているのは私の望みでないのは確かであるにしても私の望み自体を私は拒否しているのであろう。思い描いた通りに世界が動くよりも世界に身を任せた方が私への快感は高まるとわかるやいなや、計画性はおそらくは私を無計画へと駆り立てるだろう。壮大な無計画の余白に、私は計画への悪口を散々書き続けるのだろう。一番人が人でいるためには会話の次にやってくる応答が必要なのだ。応答にこそ私がいるとすればそのような自己に私はなんら興味もわかないのである。私はどうすればいいのかわからなくなった時に、周囲を描写すればいいと今ふと思ったのであるが、私の足の下には人が眠っている、私は4階にいるからだ、だからどうした。この問いは非常に強烈であるように思われる。この強烈な思いを私は一体どのようにして払いのければいいのだろう。徹底的に対話する必要があるのであろう。そこにしか私の言葉が生きるところはないのだ。私は死んだ言葉をいつまでも使い続けるような気持ちを持っていない、まして、無意識的に好んで使っている言葉さえも、好んでいるか否かはどうしても無意識が判断しているのだとすれば、それは、おそらく、傾向としてあるわけで、感情はついてこないように思われるのです。私がものを語るときそう思われるという確信以外に何を語ればいいのでしょう。客観的に確実なことを前提に話すとすれば非常な苦痛でありましょう。まして客観とはどこにある代物なのか。そんなのもわからないのでありますから。夏目漱石が私の頭を揺さぶっています。語彙の豊富さに目がくらみ彼の著作が私を喜びに導いてくれると私は自分言い聞かせるよりも早くのめり込むのでしょう。私は自分に言い聞かせる力が非常に強くて、自然に振る舞えないところがあります。どんなにしっかりした人でも私ほどにはしっかりできないように思われるのです。生まれるときに人生は決まっているのかもしれません。体力なるうちはその人生から少し離れて生きることもできましょうが、無理は禁物です。だからと言って宿命なるものを知ることができるでしょうか。それを知るときはないのだろうと考えます。なぜならば、私は運命を感じるときに未来を思うからです。過去は私の知らないところで因果関係を作り上げます。おそらくは誰によっても改変可能な因果関係でありそこには解釈しなく動機の査証が行われているように思います。確実な認識は如何様に現れるのでしょう。気にもしないような質問ばかりを投げかけてどうするのでしょう。人に何も強制しなければたいていの問題は起こらないはずです。自分がやられて嫌なことはしない。見ていて嫌いな人にならない。とても難しいことです。私が嫌いに思わなければ存在しないような残酷な主観に踊らされているのですから、主観に客観が混じっております。私が金を無心するときに私のビジョンがあるのです。そのビジョンを助けてくれる人がいてくれればいいのかもしれません。それでいいのです。他に手出しをするのならば、ちゃんと言い方をわきまえている必要があるのです。私について何か面白い意見がございましたらコメントをくださいと私が言うときに私は私のこの意見とも言えない独り言の残骸が残骸ではなく私が多少は苦しんでここにタイピングしていることをわかってもらいたいというなんとも、おせっかいやきを待っている状況なわけです。いいえ、誰も私の文章など読みたがらないに決まっていると決めてかかる私自身は一体なぜそういうことを言うのかと問うときに私は、私のみの不自由さを考えて泣きそうになるのです。笑いたくないときに笑い泣きたくないときに泣くような場面を想像してパッと私の手はキーボードから離れてふと、なんにも感情がないような表情をするのです。私は何を考えているのかわからないという人間の根底を見たいと思います。私たちが考えるようには考えていないことへの不満と不信それに嫌悪がそこにあるのでしょう。もうひとつは、そこには自分たちの考えていることの底浅さと馴れ合いへの粘着的なしつこさから私はどうしても、ある種の人の興味の対象になるのでしょう。私は一体どうすればいいのかと誰に問うても私は結局は納得しないのであります。なぜならば、私は自分のために生きるほど強くはないからであります。私は自分しかいませんでした。親は自立するといいます。これは、ある意味で残忍であります。価値を見出せというのですから。そこに金などない場合もあります。金に価値を見出せば楽です。しかし、競争となると惨めな思いになるでしょう。金持ちは大半は金になど縛られちゃいないのです。金持ちほど幸せでないというデータがあるとしても、それは幸せでないから金があるというだけの意味で、金がなくても幸せになれるかといえば、おそらくは慣れるでしょうが、個人的に苦しむ時間がないという意味にもとれます。誰かに鞭で叩かれるのを快感とする人間にとって苦しみのない世界は虚無でしょうから、奈落の底に落ちてしまうのでしょう。同じ言語体験がないから私は一般的なという言葉に非常に敏感になっていた時期もありますが、それも過ぎ今となっては五感が失われたといえばことが足りるように思います。私は果たして幸せでしょうかと自分に問いただすときこの言葉の持つ背景を考え、そして結論など決して出ないこの問いを発した自分の間抜けさと退屈さに思いをはせるのです。