アウトプット

相手の視点に立ってみよう

吐き出し口を探してる

 人から影響を受けたいか?そうだね、人の欲望ってのは転移して、つまり君の欲望は君が生み出したのじゃなくて君じゃない誰かから君が勝手に受け継いだものなんだよ。だから、君の行きたいように生きるのが親の願いさという場合においても親の願い通りに生きることに他ならないのだから矛盾が発生するんだ。矛盾が発生してもそれをどうとらえるのか、たいした問題じゃないから好きなように人とセックスして倫理とやらに昔は抵触したであろう規範を、規制のゆるまった現代において破ったというちょっとした安全圏内の背徳感を味わいながら男女3人でプレイするのも悪くはないのかもしれないが、自らの過大評価と周囲の蔑視が彼らをさらに燃え上がらせるから黙っておこうという配慮は一向に感じない幼稚なお遊びだ。

 僕は自由を愛する。この言葉がいかに、陳腐に聞こえようとも私の中にあるのは自由である。さて、自由とは何かというとき言葉で定義できないから自由感と言っておこう。しかし、一般的に自由を定義する矛盾、自由は捉えどころがないわけであり言葉は自由の者と発せられているとすれば、先人の言葉さえもどこか自由の空気を感じないわけでもないけれど、判例なり、それこそ、先生の言葉さえも踏襲して人に説教しようなんてつまらないお節介を焼いて人に嫌われたり泣かせることのないように自らを戒めようと思う。

 私は自分で自分を戒めるに関して好きだが、他人から戒められるのは大嫌いだ。自分が完璧であるから発言権があると思っている連中でさえもそのうぬぼれが嫌いだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。今日はいったいなんのお話をしましょうか。

 そう、教えることについて。人に教えるには、教えてもらったことしか教えられないという限界がある。従って、誰かに教えてもらったことをその人占有の知識だとは思わないことだ。議論の形式でしかそれは伝えられない。教えると言っても、大学では議論になるが、小学校では議論にならない。とにかく従えと要求される。それが保守的なじいさんばあさんの硬直した思考(何故ならば、彼らの硬直した思考も彼らの意志がもたらしたのではなく生物の自然な老い方として生まれてきたときに仕込まれているものだから。老人笑うな、お前もそうなる)・・・・。

 私は捌け口を求めている。一方で私の言葉を受け取ってくれる人がいないで欲しいと考えている。私は気分の共感などを期待しているときといないときがある。例えば嫌いな人とは何一つ共有したくないものである。話したくもない。あるのは、相手を打ち負かし文句を垂れる悪口があるのみだ。皆と仲良くできる女と違って、私は仲良くなどできないわけではないのだが、私は自分について語るだけの資格を持っているのか知らないが、とにかく自分というものの直感を忘れないでいたいのだ。そうでなくちゃ誰かの意見を聞かなくては何も言えない情けない大人になりはしないか。もちろん人に話すよりも人の話を聞く方が楽だしその方が話す人にとっても楽なのはわかるけれども。でも、思想や意見の違いを表明したところで生き方など何一つ変わりやしないのだから。ただ、変化ももたらさない愚痴に楽しく付き合うには相手の意見を聞きながら、心の中で相手をバカにしたり相手の論の弱いところを探すだけで十分なのだ。それを外に出して何に使うかは知らないけれども。それにしても、沈黙ほど自分を守る手段もないものだ。人話せば話すほどに自分を見失っていく。自分を発見していくと言ってもいい。そして、次第に傾向を帯びる。同じ文章ばかり増えていく。それが私だ。それが文体であろうか?言いたい放題言えるほど私の心は自由を感じていないとしたらいったい誰が私の言葉を抑制しているのであろうか。案外日常生活を退屈に暮らすために私は自分の口を塞いでいるのかもしれない。私はどうしもて生きるだけでもうけものだとは思えないのだ。人に話がよく変わるのでなんの話かと言われるけれども、そんなのはどうだってよくて、いつまでもいつまでも独り言をいって誰かに何かを聞いて欲しいだなんて思ったことはないのだ。