アウトプット

相手の視点に立ってみよう

思考の広場として

 何が好きで何が嫌いかの話ばかりしちゃって何が楽しいのやら。セックスにしか目がないような人間じゃダメだね。前頭葉を働かせなくちゃいけないとするならば、お風呂に入って全身の血流を良くして頭の方に血を流さなくちゃね。シャワーばっかり浴びてちゃ健康に良くないのは知ってるよね!?

 でも、それができないんだ。なぜって、お金がかかるでしょうお風呂にお湯を溜めると。

 でも、ちがうんだ僕が言いたいことはそんなことじゃないんだ。すべての人が離れていって僕は感情を喪失して果たして自由になった時に、どこに私が存在するのであろうか。僕は一体何をすているのだろうか。僕は一体何を考えているんだろうか。なんて言ってもしょうがない。僕についての言葉は何も意味がないんだ。社会の要請だって?バカ言っちゃいけないよ。僕はじぶんを語る代わりに文句は言うよ。そこに僕が出るんじゃないか。

 今の社会ってのは、じぶんを語らないね。じぶんを語るなんてちゃんちゃらおかしいね。たぶん、なぜ僕がまともに文章を書けないのかというと何かに縛られているからなんだ。その前提を壊さなくちゃ僕は何もできない。しかし、そこからときは慣れて仕舞えば私はどこへ飛んでいくやら風船となって電線に引っ掛かって電車を遅らせてしまうかもしれなう。

 子供を抱えて踏切に佇む女になんて声をかけよう、君のしていることは正しいからやめなさい。誰も正しい人生なんて歩みたくないし、そんなものないんだよ、と言ってあげなくちゃいけない。人生なんてそもそも存在しないんじゃないか。周りのうるさいヤジがあるだけじゃないか。周りのヤジにあっち向いてこっち向いて、首を痛めて、そのうちぐるっと回りすぎちゃって首がいっちゃうんだ。それが人生に囚われた人間の末路。

 なんて、上手いこと言っても誰も褒めてくれやしないんだけどね!僕の聞いているのはビートルズ。僕はポールよりも、ジョンだね!でも、ジョンは死んじゃった。ジョンは死であり、ポールは生だね。人間はみんな長生きしたいとは限らないんじゃなかろうか。死ぬってのは権利として成り立つのか知らん。死刑制度がかろうじて・・・僕の考えは危ない。非常に危ない。みんな生きたいんだ!といって、相模原の障害者施設大量殺傷事件で亡くなった19人を殺した、なんとか聖って奴について、僕がここでまともに自由にものを言っていいとしたら。お前こそ、って話なんだ。一人で解決できず、そして、周囲の声を実現したと思っている。お調子者で、気が乗ると調子に乗る。友達が離れると元気がなくなるタイプの人間。たいていの人がそうであろう。一人でいるときはとても寂しそうで、ふたりでいるときはとても楽しそう。でも、それって、例えば一人じゃ何も楽しめないっていうのかな。だいたい、集団が好きな人間ってのは、その集団の中にいる自分が好きなのかそれとも集団が好きなのかわからない。少なくとも、語れるのは自分の反応でしかないのかもしれない。其れを感性というのだろう。

 相模原の事件は、陰惨だ。悲惨だ。流血事件だ。しかし、もっと言えば、全く無関心なんだ。あの事件を犯したからといって、私の人生に何か影響を与えるだろうか。与えやしないだろう。しかし、社会に影響を与えるだろう。人は社会に何かをおいて、個人はいきいきと生きることにした。その活力を社会に還元するという考え。どうだろうか。殺人事件の背後に事情がいくつもあるのは想像に絶するが、兎にもかくにも、聖なんて名前が良くないな。偉そうで。お高く纏ってる。自分を正しいと疑ってたまらない。つまりは、テレビの歴史は、規制から今度は規制緩和に流れていくだろう。テレビで規制が増えるほどに、巷はゆるゆるになっていく。法律が犯罪を構成し、人々を駆り立てる。警察官が人を殺さないのが、不思議なほどだ。