アウトプット

相手の視点に立ってみよう

アウトプットが何かよくわからない

 自分で考えて物事を処理しなくちゃならない。情報化社会は、情報に踊らされる人間にとってはパーフェクトな世界だ。自分の味覚なんてなくても、美味しいと話題の店で食べたご飯は美味しいのだ。情報は評判となり、ブランドものが力もないのに売れていく。一人一人の感性は、大きな世間の評判に邪魔をされて窒息寸前だ。動画作りもままならない。大きすぎる容量をここに入れて何もできないんじゃしょうがない。どうも、私は無口になったのか。否、そうでもない。全否定の精神だ。否、全肯定と表裏一体であろう。思想がなんだ。思想がなくては生きていけないというのか。倫理は、人間に無理を強いる。倫理は決して人間ができることを押し付けない。其れは倫理とは言わないのだ。一体全体倫理崩壊しているのはうちの方だと、叫ぶ。大いなる森に。何も感じなくなった魂は、盲目のうちに行動し失敗を遂げる。完成された失敗はどうも心地よいものだ。崩れるのが目的で、失敗こそ成功なのである。ひねくれていると言われてもしょうがない。根がおかしいのだから。私は、思っていることを書いても何にもならないと思っている。本音さえ、誰も聞きたがらないのはもちろんであるが、退屈なのだ。現実も虚妄も事実である。裁判で採用される証拠だけを集めても人間は完成しない。終わるのは裁判だけだ。それだけなんだから、何を恐れる必要があるというのか。恐れ?私は何を恐れている。幽霊も、社会的地位も何もかも恐れない人間はいるのだろうか。私は、恐れない人間は危ないと考える。火傷しているのに痛くないのだ。腹を刺されて胃出血しているのに痛くないのだ。つまり、鈍感はしに通じているのだ。ぼおっとした人間を見ていると元気がなさそうなのは、死におかされているからだ。次第人間は刺激物を摂取するようになる。カレー好きなら激辛だ。そして、ちょっとした心地よさを忘れてしまうのだ。刺激ばかりを追い続けて何になる。充実させなくちゃ人生はいけないのか。田舎でのんびりすごせるんなら、過ごしてみるがいい。無理に決まっている。どちらが難しいのかよく考えればいい。皆がセックスをしている、君もセックスをしたくなるだろう。あいつができるんなら、俺だってできるという。ただそれだけだ。乗り越えるのは相手じゃなくて自分であるべきだ。相手の動きに乗じて何かことを起こして競うような人間はくだらない。もっと言えば、実に弱い。そんな弱い人間が組織のなかを這いずり回るのだ。嘘の笑顔も、最初のうちは持つさ。しかし、だんだん笑顔も素っ気なくなり心はノイローゼ、その責任を会社に投げうる始末。母子家庭だから貧乏。両親いるから健全。確かにそうかもしれない。しかし、わかる程度でものを見ているからそういったステレオタイプに偏るのだ。つまり、ニュース記事なんて全てデタラメじゃないか。誰かの意見を持ってきて、戦わせるのがニュース記事の論考の場所であろう。退団とは常に勝負だ。知識を持ってきて、それについて素晴らしいとか、ためになるとか、お世辞を言ってご機嫌取りの場所にしちゃいけない。だから、新聞は嫌いなのだ。災害が起これば、駆けつける。現場を伝えるのではなく、報道のあり方からふさわしい報道の仕方をするのだ。チグハグでいいのだ。あまりにも統制が行き届きすぎている。それを、何も思わずに金をもらっている連中が大嫌いだ。マスコミに関わる人間の言論の不自由さについて話し合うがいい。そういえば、くだらない女にあった。すぐに文句を言うのだ。上から目線なのだ。私は、その女を上だとも下だとも思っちゃいなかった。親が悪いとは少し思った。文句ばかり言う。余裕がないのだ。日曜だけ休みの低賃金肉体労働だ。シーツを洗っているらしい。顔はブサイクだった。この間あった男とやったが、キスはしてくれぬと言っていた。そりゃそうだ。その虫歯をまず直せと思った。でも、靴だけはとてもかわいい蝶々結びの黒い、ピアノの発表会にはいていくような靴だった。彼女もまた、少女なんだ。