アウトプット

相手の視点に立ってみよう

生きていて申し訳ない

 もう少し身勝手に振る舞えられれば、私も生きていて申し訳のない人生など歩まずに済んだのだろうと思うのですが、私も立派な日本人だなあとつくづく思うわけであります。人の人生を誰かに気を使って生きるのは本当に嫌なことだと見にしみて思います。まして、ご機嫌取りのために労力を使い果たして気疲れするなんてありえません。飲食業がやたら多すぎるのです。料理くらい自分で作ればいいじゃないですか。なぜ、外で食べたがるのか全くわかりません。たぶん、自分で料理をするというのができないのでしょう。実に、かわいそうなことだと思います。それよりもずっとかわいそうなのは私です。私は、いっつも世間から私を見ています。もう言い訳の余地もありません。私が働いていない理由は、私の身から出た錆でございます。それを、私は人のせいにするのですかららちがあきません、お先真っ暗です。ニートでもなんでもないのが私です。学生ですからニートではない、といっても歳は食ってるわけです。留年はしまくっています。それをなんと嘆けばいいのでしょう。世間の側の常識に自分を当てはめて考えれば、私はとうの昔に終わった人間なのです。そんな終わった人間と一緒にいてくれる人に対して、私はつれない態度を取ってしまったのです。なんともまあ、身勝手なことでしょうね。あんなによくしてくれているのに、私は自分勝手に振る舞ったのです。ある意味振る舞うべきして振る舞ったのです。私は嫌われたいのでしょう。なぜならば、彼女はもっと金持ちでいい男を探すことができるからです。私はもう金はないし、これ以上に優しくもできないと思います。さて、私が限界を超えられないと感じた時そこで身をひそめればよかったのです。いささか早急な考えに聞こえましょうが、そうなのです。いったい私には長生きしようという野望もなければ、何かを買うために汗をかいて努力するような、人参を目の前に一生懸命走る馬になりきれないのです。なんとか衣装のないことでしょう。これじゃあ、救いようがありません。暴れてくれればまだ、見世物として金は稼げたでしょうが、何せずっと眠っているのですから見ていて面白いはずもなく、それでいて、不幸そうな顔をしているのです方近寄りがたいのは確かなはずです。ところで、私はの読書遍歴という本を三島由紀夫やその他の作家が本を出しておりますが、私が思うに、どんな本を読んだのかでその人の性格は一応はわかりますが各々理解に差がありますので、読んだ本の傾向がどう表に出るのかはわかりませんから、一応互いに話してみる必要があると思われるのです。最近は、とんと本の面白さがわかりません。どうして自信を持ってこうだと言えるのだろうかと、そう思わずにはいられないのです。占いによれば、私は矛盾を抱えて一生を過ごすようにできているらしいのです。他人の意見の矛盾をついたからといって、その他人はどこ吹く風で矛盾を矛盾と思わずに生きる世の中ですから、ちっとも役に立たない性格を持って生まれてきたわけです。ソクラテスが矛盾論法で人々の楽しいおしゃべりを邪魔して白けさせた時、ソクラテスは言葉が持てあそばされているのに憤慨したのではないかと思います。いいえ、ソクラテスは言葉が弄ばれて本来の意味を失い、言葉を言葉として感覚の上に呼び起こすことができなくなったのだと思います。語感をなくしてしまったのです。なんという悲劇でしょう。言葉を生業に生きているのに、言葉を感じられなくなるとは。悲しい話です。彼は、死刑判決をもらいました。もらったからには、その死刑を受ける。逃れることはもちろんできたが、言葉の意味するところを忠実に自ら再現したのです。例えば、国家の警察機構が機能しているのかを確かめるために自ら犯罪を犯すような人間がいるようにです。自己懲罰的な性格であると周囲は見るのでしょう。しかし、実直なのはそのような人間です。彼らには、世間がないのです。世間が馬鹿馬鹿しくてしょうがないのです。それは、世間を見下しているからなのかもしれません。理解しようとしないところからきているのかもしれません。事態はどうでしょう。わかりません。とにかく、私は何一つ自信を持って物事を言えない立場にいるんです。では、何か立場を与えられたら物が言えるのでしょうか。言えるとすれば、そんな精神でいいのでしょうか。例えば、被害者になったからといって加害者の顔のまずさまでけなしてもいいものなのでしょうか。現代のせいんしてもいいのでしょうか。あまりにも、自分のせいにしすぎた時反動として他人のせいにしてしまいます。しかし、一面的にその批判が間違っているわけではないような気がします。私がそのように世界を見ているということでしょうから、当然に、世界について語ることは自らの認識を公にするということです。ですから、私は世界について話すことで回り回って自分についても話しているのです。そして、何一つ私が確信を持って文章を書けないことに苛立っているのをここに書き、なぜ、他の人間が自信があるように見えるのかを考察するべきではないでしょうか。つまり、自分に自信がないのです。私は、周囲を欺くよりも自分を大いに欺いているのです。ですから、私は何を言っても私がそれを信じないという事態に陥っているのです。この処方箋としては、計画を立て行動に移すことでしょう。これのみ、私が救えるのは、唯一それだけです。ある事件についての感想を書いて他人の意見を求めるようでは、性格を他人に預けるようなものです。他人抜きに自分について考えられないのは、とても不便なことのように思われます。例えば、私の考える周囲から見てなぜこの人は退屈なことに悩んでいるのかと思われる時があります。しかし、それについて理解をするのは、自分ももちろん不安になることでしょう。そこに、同じ世界に行きながら全く違ったような考えを持った個体に出会うわけです。それは、宇宙です。違った世界が私の世界の地平に開かれるのですから。不安でもありましょうし、新鮮でもあるように思われます。

 つまらない話はよしましょう。退屈な話は時間の無駄です。すぐにやめましょう。