アウトプット

相手の視点に立ってみよう

なぜ、私の文章はちっとも楽しくないのかについて少しだけ考えてみた。ひっかかる言葉があるので、少し考えてみた。少し、ってなんだ。量にできるのか。考えることは量なのか?そうなのか?そういうことが気になり始めたとき私は、言葉がなんとも適当に世の中で使われていることを知る。世の中というのは所詮これを書いている私であるし、その言い回しを平然と受け入れている世の中である。世の中というのは本当に、なんとも言えない、苦しみも喜びも生じさせ、ときには人を善人にし、ときには悪人にする。世の中というのは本当に面白いもので、自分という人間がすぐに変わってしまう場所でもある。自分が変われば、自分から逃げられるので、最高の逃避場所となる。一方で、自分と向き合っていうないということも言えるが、それに関しては、あまりにも他者が興味のない話であるから・・・という理由で、私が書かないのは、何も思いつかないからである。無理矢理に文章をひねり出そうと、トイレにこもって踏ん張っても結局でないのだから、諦めて、出てもいないのに尻だけ拭いて外を出るようなものだ。つまり、私たちは頭がおかしいのであると今何も考えずにものを言っているけれども、この癖はいったいどこから来たのであろうか。私は、というとき、私でない誰かが私について語っていることを、つまり、それは誰でもないのである。誰だと名指しすることができないけれども、確実にそれはあるのであって、それを世間だとか、秩序だとか宗教的なことがあら、つまり、神の視点からいうのである。神でもないのに、自分についてとやかく考えるのはおかしいのであるが、人間は平気でそういうことをするので、どうにもならない。死んだらどこに行くのだろうかと、悩むこともない。死んだ後のほうが楽だというのも、変だ。死んだこともないのに。ただ、今ある不安という、想像の産物よりも、死んだ後の楽だという想像の産物のほうが、よっぽど今より楽だとおいう確信があるからなのだろう。ほんとうに、人間は妄想でいくらでも天才になれ、モテることも、ヤリチンになることもできるが、妄想で、地獄を見て、地震はなくなり、犬のような思考をすることもある。私は人間について何か論じようという気持ちが全く起きないのも、私は一人でものを書いているからであろう。私のしていることを変だと思わないでほしい。それを変だという人間は、自分の好きなことがないから、それに嫉妬して私に、君のやっていることは変だと言ってくるのだ。それだけの話なのだから、付き合ってやるのはこっちの方で、そっちの言葉をきいてやるのもこっちの責任なのだ。正直、この世の中はいけ好かない。しかし、生きなくちゃいけないから服従するっていうんじゃもったいない。私は、世の中をあまりにも憎みすぎているのか、憎しみに過不足はあるのか。実にくだらないと言いたいが、それは本心であるのか。だから、ナーガールジュナを読むし、維摩を読む。それだけの話なのだと、常套文句で切り抜けようとしても、どうにもならない。いたって簡単で、世界について、私は何も知らないし、世界がわかった風を装っている世の中の、ある意味、社会的に何一つ逸脱したことのない、つまり、出たことのない人間たちは、小説なりテレビドラマなりの非日常から自分の生活を見つめ、安心したり、自らの境遇を忘却しようと必死なのだ。こっちがわに来れない人たちなのだ。どうしても、私は自分の生きたことから逃れるの難しいと感じている。それを否定するのは、自己否定である。しかい、自己否定に神は宿る。否、すべての否定に神は宿るのである。ブッタを神と呼んでいいものか知らないが、そんなことはどうでもいい。実相にではなく、動きに宿るのである。と、なんの確信もなく書いている。私の今の悩みは未来の私からすれば単なる時間つぶしである。暇だね、と言われるとき屈辱に思う。悩みを暇だと考えるとはどういうつもりだ。もし、そこで死ねば君は弱いねという。そういう人間の余裕のなさを、私は相手に暴露させてしまう。それも、相手の、そんな下らない話はやめろよと言いたげな顔に。だから、私は人に悩みを相談もしなければ、悩みの相談は人を不快な思いにさせ、また、悩みを相手に転移させてしまう恐れがあるのでしない。そして、そもそも、悩みすら本当はないようなものなのだ。例えば、就職できないと悩んだ人間が就職しても、悩みは生まれてくるだろう。悩みを解決しても悩みは噴出する。金があっても、悩みはあるし、なくて、悩みはある。つまり、悩みとはなんだという話だ。例えば、動機だ。殺人犯は、己の動機をわかっちゃもらえないということによって、社会を強く惹き付ける。どうして、殺したのか。どうして、あんなおかしなことをしてしまったのだ。つまり、事件を追って、貧困な家庭が原因だと言っても、まともに育った貧困家庭もあるはずである。自分たちが貧しいと認識して、それを世の中のせいにし、そのために苦しめられているとすれば、あまりにも世の中が、金だけの交流で成り立っているのがわかる。彼らは、人々と接触することを避けられ、小金持ちは、変な趣味を持ち出す。ある意味で、この世の中は苦しみばかりがある。金を得るのも苦しいだろうし、金持ちも苦しい。金があれば、安定を求め将来を不安にする、金がなければ、将来の安定など考えないで今さえ楽しければまだいい方で、将来が崩れて仕舞えばいいと考える。つまりは、どっちも同じであるし。どっちもないのだ。ある人がないかを言いたそう出る、語りたいそうだ。語るだけの相手がいるのは素晴らしいと思う。誰かの話を聞くのは、本当に苦痛でしかないのだ。話をしている人間は、話を聞いている人間の気持ちに従うだろうし。話を聞いている人間は、話をしている人間をバカであるか、もしくは、社会的身分だけを感じ取ってまともに聞いているかのどちらかである。しかし、私の文章はきっとどうでもよく誰にも読まれずにネットの山の中に捨てられてしまうのであろう。それも結構。何が起きても特に私は何もしない。