アウトプット

相手の視点に立ってみよう

他人とは、混乱している。何を考えているのかわかりたくない相手である。沈黙していて、何をしでかすのかわからない。いつ怒り出すのかわからない。その他人が集まって構成された社会に生きる上で、ルールが必要である。人を殺すなとあれば、人間は人を殺すものかと思わずにはいられない。私は、何にとらわれているのだろうか。このような考えがもたらす最高の結果はなんだろうか。僕の文章は本当にちっとも良くならないし、思ったことをそのまま書いたほうがよっぽど良いと、道元さんが言っていたので、なんとなく自分もそれに賛成して、こうして色々と書いているのだけれども。

絶えず流れてきては、過ぎていくのが、人の意見で、何か言ったかと思えば、何を言ったかなんて覚えてもいない。人の意見は、自分を言葉にして縛りつけるようなものだ。思考が言葉に縛り付けられているのは、実に不愉快だ。そして、人間という言葉を使うのもやめようではないか。何か、間違っている気がする。私は、おそらく「人間」様について、何も語れない。私が持っている「人間」についての、妄想、希望、諦めを「人間」という単語に思いを込めたところで、人間について正しい理解などは決して得られない。そして、私が「人間」について話すとき、相手も人間であるから、その不自然さに不愉快になるかもしれない。とにかく、私は「人間」なんて言葉を使うのはやめにしよう。

強い主体が必要である。自らの気持ちを誰にも譲歩せずに明らかにするのが大事だ。では、自らの気持ちとはなんだろうか。私は、いけない扉を開こうとしているような気がする。自己を理解しようとする。例えば、テレビばかり見ていると、いつの間にか、テレビで起こったことが実際に自分の身に起きているように感じる。テレビでの事件が、自分の生きているところと何か関係があるように感じられる。テレビが持つのは、集団の意識への働きかけだけではない。集団の無意識にも確実に働きかけている。無意識とは、意識されていない前提だ。殺人事件が起きると、コメンテーターが異常な事件だ、という。異常な殺人事件とはなんだろうか。殺人事件が、そもそも異常ではないか。加えて、人が人を殺すのは昔からある人間の太古の営みではないか。セックスだけが、昔から行なわれているわけではない。私は、人間について語りながら、自分を慰めている。人間は、浮気をするものだから、自分が浮気されてもあまり衝撃を受けないように、といった具合に。予測不可能な人間の動きは、おそらく非常に不愉快なのだろう。人間不信も、自分の予測する人間の動きが、実際の人間の動きと合わないという状態であろう。相手に合わせて行動する人間ほど、相手に対してなんらかの一定の行動を求める。そして、自分もその相手の常態化した行動に符合することで、自分を取り戻すのである。相手と自分の区別をつけることができない。相手を自分の考えのもとに、もしくは、自分の信仰の元に行動させる。教師であれ、王様であれ、上司であれ、こういった行動をする