アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 近頃はあまり心配事がないような気分だ。気分だからまたいつ、発作のように不安が神経を蝕んで緊張状態に陥らせ頭の上からつま先まで固くするのかわからない。しかし、私はいま空気に包まれているようだ。肌の周りに空気の層があって、それに守られている。直接に事物と触れ合うことから自分を守る肥後膜のようなもの。その正体は、優しさである。優しさの気まぐれの中に安住していると世の中も平和に見える。アメ横を歩くと、薄汚れたパーカーを着てヨレヨレの靴を履いたおじさんが歩いている。渋谷では頭を見事に禿げ上がらせたおじさんの頭の上を雨の日の冷たい風が吹き抜ける。見た目では薄汚れているが、心では華やかさを求めているに違いない。だれも、寒くて冷たい場所を好む人はいないだろう。太古の人は洞窟で暖かく暮らした。火を起こす技術を知らなかったので、一度焚いた火を絶やさぬように寝ていても数時間すれば起きて火が絶えぬように落ちている木を放り投げたりしたのだろう。断定ができないのは、私がその現場を見ていないからだ。私は自分が見たことと自分が推測して、あるいは妄想して語る部分を混同させないように努めている。ある人は、思い込みが激しくて彼の思想を他の人の思想に見出し、その他の人を批評する。小林秀雄のようなものだ。彼の文章は確かに突き抜けた自由なところがある。文体が、独特で当たり前のことを当たり前ではない言い回しで言う。一方で、サラッと書くときもある。小林秀雄を読むと確かにその文章に引き込まれるが、彼の言いたいことは文章上に表現されてしまっているのだ。場当たり的で、何か相手に意をくんでもらおうと言い回しを諄くしてみたりすることがない。私は小林秀雄のような文章を書きたいと思った。世の中があまりにも自分を見捨てて、得点に迎合するような文章ばかりを書いているように思えたからだ。彼らは実際にそうなのかもしれない。自由に書くのは非常に難しい。あるテーマについて、しかも、文章を書くのがいいと思うの。思っていることを書くのは難しい。書くために、つまらないテーマを設定して自分の書きたいことから遠ざかっていくばかりだ。それで、良い場合ももちろんあるのだ。だれかに評価される際、もしくは弁護したくない被疑者の弁護人であったりするのだ。言葉のルールで戦うのと、魂を言葉に乗せるのは大きな違いではなかろうか。さっさと定型文に落とし込めて、法の安定性と弁解しながら忙しい実務に励む裁判官の個人的な思想は、一挙に仕事を担わされそれに文句も言えないが名誉だけはいっちょまえにあるので、その椅子に座り込んでいる裁判官を悪くは言えない。私たちは、いろんな人に対して偏見を持ちすぎであるから偏見を捨てろと言われても、簡単に捨てられるもんじゃない。でも、今の私は偏見が捨てられるように思っている。ひとつは、自分をなくすことだ。それは、難しいというよりコツがあるのだ。信条だとか、信念だとかを自分が持っていることをまず知らなくちゃならない。相手のことをどう思うかについて自由でなくちゃならない。その上で、相手を自由に見るのは、私にも同じような自由をもたらす。皆一様にひとつの癖を持っている。短気な人であったり、優しい人であったり。それが、各人に様々に見られる。優しさが弱さに、短気さが雄々しさに。しかし、各人が拠り所にしているパーソナリティの根源は、魂のようなもので、それは一つである。それにまとめられる。しかし、あいての性格について話すのはすこし踏み込みすぎでもあるかもしれない。あいての行為について話すのであり、その人間性には踏み込まないのも自分が自由に相手をみるためのコツとして必要かもしれない。だれかを憎むとき、それは誰かすでに憎んでいるような人の真似をするものだ。国民性ように、あるいは、友人、恋人、家族で仕草が似てくるように。考え方や、仕草、性格も伝染していくのである。社会の制度が悪いから凶悪犯が増える、といった場合、これは科学的な手法を用いて証明される出来事ではないかもしれない。しかし、あたりはつくであろう。そういう気がするであろう。論文という証拠がなければ何も言えないようで、ダメである。自分の感覚器官さえ、証拠になりうる自由はある。そして、その証拠の不確かさもまた自由の中にある。よく、自由が欲しいだとかいう何千回と耳にしたような言葉を吐く人間がいる。おそらく、自由が欲しいわけでもないし、自由について知らないし、自由になったとしても自由が欲しいと思うであろう。社会制度がある特定の犯罪を生み法律が対処していく場合に、誰の利益になるような制度が設計されるべきであるのかは、おそらく知っているものよりも、知らないものを保護する方向でなされるべきである。知らないものを保護しすぎると弱者保護の過剰であるというかもしれないが、自分が弱者であることを認識していない場合が多くある。何が多くて、何が少ないという話は、あまり意味をなさない。多いから正しいわけでもなく、小さいから正しいわけでもない。自分がどう思っているのかと考えるとき、アメリカ人は自由であるのか私にはわからない。彼らは、自己主張を信じているが、彼らの主張は一様であることがままある。日本の場合は、集団的ではあるが、個人への配慮は十分に及んでいるようだ。この種の議論も、もう古いのかもしれない。しかし、温故知新である。話が込み入ってきて雑草の中を歩いているようだ。金塊でも落ちているだろうか。自分の興味のあるところばかり歩いていては学ぶことは少ないだろう。習慣に従って生きているうちに、自分の欲望なり、自分が抑圧されていたことに気づき、他の人にもそう振る舞う人間も出てくるであろう。独りよがりになり、弱い女がたくさん従って、自分が強い男であると錯覚する人物も出てくるだろう。このように、女だとか、男だとか、あるいは、女が群がれば、男は自分が強いと錯覚するような人物がここにいる。あるとき、私は動画を見た。私の見る動画は、たいていくだらない。バイクがクラッシュした動画や、バイクが車とぶつかりそうになって互いに罵り合うような動画だ。とても激昂しているし、普段ではみられない視覚の感覚だ。あるとき、バイク乗りが道路に落ちているスズメを拾い上げ近くの花壇の上に乗せてあげたり、車の行き交う道路の真ん中で故障した車をみつけたバイク乗りが、バイクを止め、その車を後ろから押し安全な場所に避難させるのを手伝ったり、あるいは、森の中にいたなきじゃくる女性に声をかけ、暴力できな彼から逃げてきたのであろうが、その女の子をバイクの後ろに乗せ、自分のかぶっていたヘルメットやジャケットをきさせ、近くのファミレスに連れて行ったりと、そういった動画を見た。そして、コメント欄にあった言葉に私は納得した。「道路で怒り狂っている人間を見るよりも、こういった人間の行為を見るべきである」と。事故や、ハプニング、そして、下ネタは難しい。だれも、好きで事故に合わないし、下ネタも話している本人も心から面白いわけはないのだ。性的な事柄はプライベートであるゆえかもしれない。ニュートラルな姿勢は貫き通すのが難しい。力を抜くよりも、脱力させるのは難しい。難しい、難しいと嘆く言葉の裏には、意味のわからない言葉が待ち構えている。それらは、いつか言語化されるだろうと期待して椅子に座って出番を待ち続けている。邪険な眼で世の中を見るのは滑稽だというのいいすぎなのだ。ただ、私にできることはふつうであるように振る舞うことだろう。そうすると、周囲はふつうにみえてくる。世界が、陰謀に包まれているように思うと、そう見えてくる。私が人付き合いにこだわりがあるのも、私がある一定の友人の影響のもとに世界を見たくない気持ちがあるからなのだ。自分の物の見方を押し付けてくるような偏見に満ちて、その見方に気づくことなく、そして、変わることのない人間と話すのはすこし苦痛を感じるのだ。苦痛から逃れるのは、弱さだろうか。むしろ、多くの人はそのようなビッグマウスに追従して阿鼻叫喚し、自分が何者であるのかもわからずに、インターネットの情報に振り回されて、何が心から楽しいのかを見失っているようだ。一度オフラインにして、自分の体からくる感覚を楽しむべきであるように思われる。それは、難しいことではなくて簡単なことなのだ。しかし、すぐにスマホに手を伸ばしてしまう。これは、僕が自分への戒めで書いているよりも、誰か不特定の相手に書かれている文章であるように見えるけれども、これは、おそらくは、自分への戒めなのだ。このような形でしか、文章は成立しないのかもしれない。あいてを説得する目的で書かれた文章は見え透いているし、自分の反省文は相手にちっともわけのわからない文章になる。ひたすら平身低頭に謝っている人に、もう謝らないでくれというのに似ているような気がするのだ。意思の疎通が出来ていないのなら、謝ってもしょうがないじゃないか。心にもないような侘びと、内容を理解していないような心からの詫びも意味をなさないと考えているからそう思うのだろう。果たして、謝って欲しいという気持ちを抱くこと時代が間違っているように思うのだ。純粋に人間を心の底から謝って欲しいという、相手の気持ちの改心を要求できるのは、神である。私は神ではないので、心から相手に謝ってもらおうだなんて思っちゃいないし、そのような人間にあったこともない。私が失敗をしなかったからだろうか、それとも、相手に謝罪するような場面に出くわさなカッからだろうか。自らの過失で人を殺してしまい謝れば改心の情ありとみなされていある刑を免れることがあるかもしれない。しかし、その後相手に自分を誤らせたことに対する念を持つようになるだろう。

石川啄木に、

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

とある。