アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 ぼくはとらわれている。なにかしなくちゃいけないとあせっている。あせっているうちに、なにもするきもおきなくなり、楽にやろうとすると、なぜもっと早くしなかったのだろうと後悔し、けっきょく何もしないのだ。そう、それでいいのだ。あせることもなく、ゆるやかに、他人の痛みを自分が全て受け入れる事もしない。なにもしないのは非常に難しい。そんなぼくに、みなは、きみはなまけている、怠惰だ、つまらない、信用ならない、もうダメだ、終わっている、ああすればいい、こうすればいい、なぜこうしない、なぜ、と絶え間なくお話をしにくる。その度にぼくは、わらうしかない。きみたちは、そういうことばで、今生きているのだとすれば、それは、ご苦労さんな事だ。世の中で金ほど大事なものはないと、痛切に感じた人間がいるのだろうが、果たしてそうだろうか。ものは買える。でも、アイディアは買えない。楽しさも買えるだろう。しかし、心の中の楽しさはふいっとある瞬間にきえさってしまう。どんな降霊術を使えばいいのかわからない。楽しい神様が憑依してくれたのだろう。いまは、どんな神様が憑依しているのだろうか。貧乏神だろうか。鎌倉ものがたりでは、貧乏神は、あきこのなんともいえない、天真爛漫さに心を打たれしばらく一緒に暮らす。しばらくたって、行くところができたといい、家を出て行く。あきこのる家は貧乏神にとっては毒じゃ、といって、さっていく。あきこは、貧乏神と交換したお皿にのって、最後は夫とふたりで黄泉の国から帰ってくる。「寿命がつきるまでお元気で」と、死神様に言われながら。

 現代について語るのは、ひじょうに難しい。客観的に述べて信用と説得力を得る方法もあるだろうが、詭弁に過ぎない。よのなかが、論理的に運行されるのであるのならば、かならずこの先の未来まで予想できるはずなのだが、人はきまぐれであるから、何に楽しみを見出すのか、そして、集団がどう動き、ある一つの凝り固まった意見に、同調するようになるのか、特に、日本ではチームワークが大切だとされている。あるひとりの、突飛な考えは邪魔される。ようするに、そういう位人間にとっては住みづらい世の中であり、何も考えずに、ちゃらんぽらんに、まわりに合わせて生きているような、キョロキョロしたやつが、生きていくのに最適なのが日本なのだ。そこにあるのは、おもしろさというよりも、村八分である。おそらくは、ぼくがそう感じているだけだという考えもある。そして、たぶん、いや、ほとんど正確にいって、ぼくがそう考えているだけなのだ。ただ、なにをおそれ、なにをおそれないのか、なにをいやがり、なにをいやがならないのか、つまりは、ぼくは、人の目をひどくきにしているのだ。服まで気にするようになったのは、じぶんが、内面を犠牲にしているからであろう。服がきになるのは、じぶんがもはや、周囲に対して内面的な誠実さよりも、外面的な誠実さを重んじて、それを自分だと思っているからであろう。そう考えても、差し支えない。ぼくは、ちょっとつかれているんだ。あまりにも、じぶんばかりをあいていにしているから、じぶんがごちゃまぜになってい、統一をうしなっているんだ。それを、病気だとか言ってみてもしょうがない。みんななにかしらの、病気なのだ。もしかしたら、ぼくが、こいつは病気じゃないと思っている奴ほど、大病にかかっていたりするのかもしれないのだから。つまりは、ほがらかにやっていこうよということで、別段、なにをされたからといって、怒る事もないし、じぶんに、嫌気がさすような事を考える必要もないじゃないか。世の中は、これからもずっと、むかしもそうであったように、ある集団の、ある習慣をとりいれて、暮らすであろう。恋もするであろうし、恋を科学的に分析して相手をいかにふりむかせるのかの、テクニックを量産するであろう。そして、手の内を知っているものにとっては、とてもじゃないが、そんなのは興ざめなのだ。しかし、習慣であると知れば、それを喜んでうけとるにちがいないのだ。プレゼントは、相手を落とす恋のテクニックであるよりも、習慣である。結婚とは、あいての習慣と結婚する事だと言ったのは誰であろうか。一生懸命に、丁寧に生きるのがいい。いや、なにが、いいだとかわるいだとか、それさえ、どうでもいいじゃないか。そんなもの、ありはしないのだ。世の中の習慣にさよならを言うのが、仏教なのかもしれない。あなたには、それがみえるかもしれませんが、わたしにはそれがみえません。それだけだ。ひとはめいめい、好きなものばかりに目がいく、怖いものばかりに目がいく。それを、心の傾向だと言ってみたところでしょうがないじゃないか。それならば、まいにち朝うんこがでるのは、心の傾向だろうか。排便感は、実体のないものではなく、体から出るものであるから、胃腸科に属するのであろう。ようするに、医者だって、人を長生きさせるのも大事だが、楽しく長生きさせるのが大事なのだ。それにしても、私のかかっていた大病は、少しは止んだであろうか。ふたたび、再燃するのではないかと思っていはいるけれども、それが、不安であったりはしない。来るなら来いとも思わない。きたから、やってきたともおもわない。なんともおもわないのだ。まいにち、寿司をたべていれば、寿司の美味しさがわからない。まいにち、殴られていれば、痛みがわからない。つかれているということが、わからないというのが、ほんとうは体に大きな負担をかけているのだと、いったのはマツコデラックスであった。彼女は医者じゃないけれども。