アウトプット

相手の視点に立ってみよう

美しい景色を見なくちゃ、気が済まないなんて、少し贅沢ですわ。美しい景色は、外に広がっているのでしょうから。目から入った光線を美しいと感じるのでしょうか。それとも、私の心がそれに感応するからでしょうか。私にはちっともわかりません。あれをしなくちゃならない、というのは一体誰からの押し付けがましい要求なのでしょうか。そして、それをしないばかりに苛まれるのは私ばかりです、あまりにも馬鹿らしいので私はあまりそういうことを考えないようにしています。しかし、考えないようにばかりしているとなまじ相手から小突き回されているようです。軽いジョブも積もればダメージになります。おそらく私の心持ちが私につまらぬ文章を書かせているのでしょう。格調高い文章というのは、格調高い人から生まれるものです。格調が高いのか低いのかは文章に現れますけれども、文章の格調の高さと本人が周囲から格調の高い人だと思われるのは関係のないことです。一向に関係がないので困ってしまいます。一体どうすれば楽しい文章が書けるのでしょうか。ずっとそればかり考えてまいりました。まずは、他者を設定することであろうと考えられます。相手がいなければこの文章は支離滅裂になるでしょう。なぜならば、相手がいなければ自分のつまらぬひとりごとで文章をいっぱいに満たしてしまうからです。おそらくは、読書により培われるのは知識では決してないのです。それは、フィーリングなのです。仏教関連の本を読んでおりますと、もちろん、仏教に関するの本でも、中村元先生のブッダのことば(スッタニパータ)は、すとんと心持ちをやさしくさせてくれます。世の中には、心理学やら、精神分析学やら、やたら、分析しなければ説得力を持たないだろうと考える著者と読者によって構成された面倒な世界があります。すべての事柄に客観的な根拠を求める態度は非常に疲れますし、そもそも、説得よりもある種の自己肯定をそこに見出すのではないでしょうか。世の中すべてのことに理由があるわけではありません、なぜ地球ができたのかについて誰かの意図であるのかないのか、それを考えてみてもしょうがありません。物質的な運動が地球を作りましても、私の今の気持ちは一体いかなる物質によって構成されるのであるならば快活に生きられるのでしょうか。脳の物質と言いましても、それには限界がありますし、なぜ恒久的に快活でいられないのでしょうか。おそらくは、人間の体の恒常性に原因がありましょう。眠らなければ、人間は次の行動をやめてしまうから、眠るのです。つまりは、過剰な生の後には、永遠の眠りが待っているということかもしれません。快活に生きていればその時は楽しいでしょう。誰もを凌駕したような気持ちになり、世界を我が物にした全能感に浸れることもあるでしょう、世界はこれっぽっちかと悦にも浸りましょう。おそらくは、スッタニパータのブッダは優しいわけでもなく、弱いわけでもなく、殺すなら殺すが良い、私はこの安らぎの境地を楽しんでいる。という、気持ちがあるのではないかと思われるのです。残念なことに、現代の粗末な分析学的趣向でこれらの精神を記述するには非常な工夫か必要で、私はもうインターネットの効用をちっとも認めたくないのです。パソコンができてよかったのは、相手にメッセージを瞬時に遅れることでしょう。大多数の人に自分のつまらない偏見に満ちた意見を、客観的であるから真実であると博識ぶり、相手を説得させようとする人間には、私は手を叩きながら君の言う通りだ、と称賛するでありましょう。なぜなら、彼らの求めているのは、称賛だからであります。それにより、彼らは安定するのであるし、彼らは世の中で犯罪を犯さずに済むのだろうからです。世の人々はみなさんご病気ですから、お互い様に相手を受け入れる寛容の態度は必ず必要でありましょう。相手を拒否すればその分だけ、自分が息苦しくなるのが世の常です。非常に面白くありませんか。生きづらいので同じ仲間とばかり話し、狭い了見をわざわざ自分に無理やり強制して生きるのですから。私はこのような生き方に賛成とも反対ともしません。第一、物事が明確に二つに分かれることはないのです。そして、別れたとすればおそらくはどちらも間違っているのです。国会も、与党野党というからよくないのです。野党も与党でありますし、与党も野党であります。相手を互いに監視するという態度よりも、個人個人がしっかりしていれば、このような対立軸を作り出して政治を行う必要はないのですから。競争社会において、自分のしたいことを我慢して競争に勝ったとすればそれは敗北でしょう。必ず、自らの欲望を捨て去った先に勝利があるのでしょうから。一番の勝利は、競争に負けることでしょう。なぜならば、競争に勝とうという欲望がすでに敗北を有しているからです。これがまったくの持論ですから、ちっとも誰も話を聞いてくれないのですが、世には、結局は奴隷には奴隷の愚痴話、王様には王様の世間話が流行るわけであります。馬鹿正直は、その名の通りバカですから、正直です。自分位正直であり他人に正直であるのは裸で相手の前に現れるようなものです。そうニーチェは、どこかの文章の文句に残しております。要するに、熱中こそが本物でございましょう。それ以外の情熱は一切認めません。情熱は決して松岡修造のような、情熱の形をしているだけの道化者に譲り渡してはいけません。なぜならば、情熱のない人にこそ情熱を求める気持ちがあるからです。