アウトプット

相手の視点に立ってみよう

汝の症候を楽しめ

 僕は病気だ。恐ろしいくらいのひどい病気にかかっている。それは、美しいというのがもはやわからないのだ。なにか、美しさが権威を持ち始めてそれを所有しようという気を抱かないように細工しようと私は、私に対して不思議なインビ工作を行っているのだが、それは、私自身の自覚により、暗黙のうちに遂行されている公然たる出来事なのである。私が、私という時、私はどこにいるのか。いま、私はこう思っている。どうやら、とうとう私も狂ってしまったようだ。そう弁明しなければ、これを読む人間は、客観性のない戯言だと判断するだろうと私が考えているからだ。ところで、そう考えている私はどこにいるのか。私とはいったい、どのようなことを考えているのか。ここで、ナショナリズム的な偏見のおそれがいささかあるようなことをひと段落書かせていただく、ところで、私はいったいなぜ、「書かせていただこう」などと、およそ子供ではない相手であろう何者かを想定して正常を装おうとしているのだろう。化粧で顔はごまかせても、心はごまかせないというのは、たいてい、多くの女性が納得しない主張であるように、化粧により私を隠すことで女はある儀式を執り行うことができるようになる。それも、いささかの疑問もなしに行えるのである。内容は一切関係ない。極論であると切り捨ててもらっても構わないが、何かを判断する時に、必ず極論が前提となっているのだからしょうがない。例えば、私は、ここに文章を書いているが、誰かが読んでいるだろうという推測と、しかし、私について誰も知らないのだから、私は「私」から離れて、ある種仮面を着用していると思い込んでいるのだから。つまり、誰かに見られる可能性は必ずあるのだ。それを、全く無視しているわけではないけれども。と、口数が増えるごとに主張は説得力を失い、判断には極論が含まれているという主張がもろくなる。これでは、自滅である。

 これで、判明したことは、かんたんだ。何か主張を君が持てば持つほどに君は主張という檻の中で君の檻の中に入ってくる人間をひたすら待ち続ける。君の主張はすべて、君を守るためである。そして、君が守られるためには君を一歩も外に出さないのが最良であると判断されているのだ。議論に勝ちたければ、多くの人々の納得する偏見を利用するのだ。ネットはバカと暇人の空間だ。何一つ役に立たない。しかし、自分を捨てるつもりで読めば最高の空間だ。バカと暇人は余計なものを持たずに生きていける世界に生息する。多くの忙しい人は、自分の金のために暇もなければ、バカになりきれず賢そうに振る舞い上のいうことを何なりと聞いて動く。そこにあるのは、新しいことではなくて昨日と同じ日々が維持されるための約束事だ。

 僕が生きている理由がさっぱりわからない。もう死んでもいいとさえ思っている。死んで仕舞えばいいんだ。と、でも、これは僕がそう思っているのではない。僕が、大好きな人たちの無意識の思惑に忠実であろうとする精神だ。忠義といってもいい。日本人は偏屈だ。死んで詫びるという精神に赦しはない。民族の儀式は続くだろう。しかし、居心地はいいだろうか。互いに、監視し合うことはゆるくなっても、決して助け合おうという気持ちはない。それは、アメリカだって同じかもしれない。別に、外国と比べる必要もない。しかし、それとは別に、世界の多くの国で、自分の国の内部が混乱しているのを目にする。世界が一つになるわけはなかった。互いに、グループの代表者が仲良くしていれば、世界の秩序は保たれる。一体僕は、世界に何を求めているのだ。まるで、おねだりだ。しかも、声なきおねだり。欲しいものは抽象的で、決して触ることはできない。しかし、抽象的であるがゆえにあらゆる形態に憑依する。自由が欲しければ、それは一体身体の自由か思考の自由か、いずれにせよ、ここに好き勝手に書いているのは一種の自由であろう。だから、抽象的な願いは叶えられやすいのだ。おまけに、自分が愛されているという実感をなんの証明も必要としないのならば、いささか奇妙ではあるが、わがままは満たされる。そして、やっぱりわからないのが、自分は一体何を考えているのかという疑問だ。これは、おそらくは外部、すなわち社会的に必要になるであろう弁明として課されるであろうという自分の生み出した世界からの宿題なのだ。いささか面倒くさいのであるが、これに答えるのが社会参加である。しかし、社会に出ている人間は参加なぞ子供の文章に思われるであろう。子供の感性を必要とされていると想定される絵本でも書きたい気分になるのはそういった、自らの幼児性を社会的な大人のポジションに見つけ出そうするところにあるのだろう。

 世界が腐っているのではなくて、私の中の世界が腐っているのだ。腐敗している。だから、私は私の中で一人もがいて不幸になっているのだ。世界は何度も再構成される。私の中で。子供であったり、大人であったりしてね。そして、私は世界に退屈する事なく、私の世界の中を生きる。私は、私を牢屋にいれる。私は、私を励ます。私は、私が考えている事を私が解釈して本が出来上がる。他社とは想像的な産物だ。実感が伴わない。完璧なる外部の存在だ。世界よりも遠くにある。否、世界と他者は切り離せない。他者の反応を私が解釈する事で世界は明るくもなり、暗くもなる。なぜ、世界がどこもかしこも同じに見えるのか。それはネットで世界の視覚的にだけ捉える方法をとっているからだ。アメリカ人が、アメリカ旅行に行くだろうか。フランス人は、フランス人気質なしにフランスに住めるだろうか。

 沈黙は金なり