アウトプット

相手の視点に立ってみよう

わけのわからなさ

 今の日本人はケチだ。感受性もない。興味のないことを聞こうとはしない。自分の知識を広げるにもビジネスに関わることならという条件付きだ。条件付きの行為に自由はないとカントはいった。昔の人は偉いことを言うもんだ。日本はバブルを楽しんだ。大いに楽しんだ。そんな時に、一人静かに部屋にいるのはもったいない。外はお祭り騒ぎ、今度いつ来るかわからない。手足衰えて祭りに参加するよりも、体の動く元気な時に参加したい。そんな欲望にかられるのも当然だ。だから、いつまでもこの国は誰かの模倣で生きてる。ダリはいった、模倣なきものに成功はない。模倣こそ、新しい芸術の始まりだ。たしかに、そうだ。しかし、ダリも今は普通になった。見た衝撃はあるが、深さがない。奥行きがない。わけのわからなさが興味をそそる。わけがからないから理解しようと拙い言葉を頭の中で考えながら、あるいは即興的にフィーリングに沿ってつむぎだそうとする。その、楽しみも近頃は流行り廃りの川に流されてだいぶ下流を漂っているようだ。世界は、個人の解釈により成り立つ。もし、貧乏があるのなら、それは個人の心の中にある。もし、食欲があるのなら個人の心の中にある。したがって、個人が死ねば世界は終わる。楽をしたいというのは、つまり、個人的な営みなのだ。そして、友達がたくさんいて周囲に多くの友人を抱え常に人と関わりあっている人間も、楽をしたい人間なのだ。孤独を埋めるのは難しい。人がいても孤独はあるんだよ。それが、虚しいと思うかい?ぼくは自分のしたいことをしたい。付き合いたくない人とは付き合いたくない。それが一番だ。もっといいことがある。付き合いたくない人間といながら、自分の好きなことをすることだ。それをわすれていてもらっちゃこまる。よく、あの人は苦手だという。それは、自分の自由が奪われるから、そしてもうひとつ、自分は他人の言動に依存しているからだ。あの人は苦手だ、なぜなら気が合わないからという。気を合わせる必要がない。自分のしたいことをすればいい。したいことのない人間に限って不平不満はたらたらと出る。要するに、相手との居心地のいい関係をもとめているのだ。苦手なやつとは構築不可能な、楽園を作りたいのだ。そんな楽園、ただの馴れ合いなのだけれど。自分に嘘をついているわけじゃない、いい友達に囲まれて楽しく過ごしたい。人生は一人で過ごすにはあまりにも長い。退屈しのぎに友達とすごすのはけっして悪いことじゃない。暇、という観点から物事を見ると、仕事も暇つぶしだ。なにもしないですごすのは、出来ない相談。こうして、書いているのも暇だからだ。しかし、お前暇か?と言われると、お前こそ暇人だろうと言いたくもなる。暇だ、というのは相手にたいする羨望がある。もちろん、優越感と、理想を混合した感情を、羨望と言わせていただくのならば。

 2、3年前は非常に簡単だった。人生もシンプルだった。論理的なことだけが真実だった。それ以外は嘘だった。しかし、生きるほどに論理的なことが真実だという観念が薄らいできた。味気なくなったのだ。あれほどによく切れたナイフも、今じゃかみきれほどの鋭さしか持たず、ナイフを持っている実感がないのだ。そういう感じ。論理とは、頭の中に構築された一つの体型でしかない。神経質で怒りっぽく、正義感に溢れ笑顔ははじけとぶ。そんなやつに、魅力を感じなくなった。怒る人間は総じてバカだ。しかし、気持ちはわかる。イライラしようと思えばできる。しかし、それを制することもできる。気持ちを制する術は大学では教えられない。自分で獲得するしかない。カリキュラムもない、判定手段もない。現代は、判定できる価値基準を重要視する。資格の数だ。数なら目に入る。成績も目に入る。私の人間性は売り物ではない。私を自信を売って金などもらいたくもない。だから、サービスは嫌だ。本当のサービスは無償である。いくら屁理屈こねて、お金を受け取るのがサービスであるといったところで・・・力尽きてしまった。一つのことに、答えを出すのはまちがってはいないか。ある一つの思想というのは、自分の弱さをみせない戦闘服だ。言葉という銃弾を持ち歩き、相手が攻撃してくれば罵倒する。表情に、あわれみと見下しの顔を浮かべる。そういう世界がいいのか悪いのか。各自判断にまかせよう。私は、もう何も判断したくないのだ。金があれば使い、なければ使わない。それでいいのに。女を手元に置くために、友達と遊ぶために、欲望のために、仲間はずれされないために、あまりにも私は強すぎたのかもしれない。弱い人間は重宝される現代だ。太宰治はいった、もっと弱くなれと。弱くなれば、怯える。細かいことを気にし始め、被害妄想が広がり、ひねくれる。しかし、一見素直だ。ひねくれるのが普通な世の中だ。土下座する、自分がすべて悪いと言い始める。ああ、世の中はいつもこうだったのだろうと思い知らされる。喧騒が常だ。夜は、不思議だ。夜こそ太古の昔を思わせる。テレビもなくネットもなく、どうして生きられよう。お笑い芸人の命令に従って笑い、情報番組のお菓子に目を惹かれ、殺人事件に今日も世界は平和だとうなだれる。どんな世界が作られようと、素晴らしいはずはない。シリアで子供が兵士に殺される。アメリカで子供がダンス教室に行きたくないと駄々をこね、母親を怒らせる。どこへ行っても、世界は変わらないのだ。ネットにより、すぐに手に入れられるようになった情報。情報とは、広告と同じだ。タバコがいくら体に悪かろうと、気持ちが良くなるのだから吸うのだ。健康という価値観を持たなければ、汚い労働環境の中働いていただろう。汚い人間は英雄である。汚れた英雄。清廉潔白な奴は、信用ならない。それくらいのこともわからないのか。それくらいのことも。どうせ、自分はバカだから・・・と思っているのだ。言葉は永遠に吐き出し続けられる。終わりがない。自分の価値観を表明する時代は終わった。相手に媚びる時代も終わった。今はおとぼけの時代だ。どうボケるのか。自分も相手も予期しない言葉こそ今の時代に求められる。しかし、それはもう学べるものではない。シャーマン的な領域にあるのだ。もちろん、相手を説得する言葉もある。相手が他者とつるむにあたり否定できない倫理的言葉に対して問いかければなんとか相手を説得できる。それに気がついた人間は不幸だ。なぜならば、買うことも救われることもできない。