アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ぼやき

 ぼやこうぜ。いろんなニュースがとめどなく流れている。どうでもいいと、思えるものがニュースだ。本当に関心のあるのは今日の晩御飯。犬になってみるがいい。君が人間だって、そう思い込んでいるだけだ。何にだってなれる。さて、病院に拘束されたことを理由に女が病院を訴えた。女は、摂食障害と診断されベッドの上で77日間過ごすことに。すばらいい生活。しかし、音楽は聴くことができず排泄も看護士立会いの元なされたらしい。摂食障害だけでこの仕打ちはないであろう。医師は、患者の秘密を守る義務がある。だから、我々は断片的なことから想像を膨らませなくちゃならない。女は精神も相当病んでいたのだろう。自傷行為も、フラッシュバックも、彼女の神経があらかじめそう彼女にさせていたのだろう。今24歳の彼女。当時は14歳。さて、人生はズタボロにされたとメンチを切った。80歳の婆さんの気持ちになってみよう。24歳に戻っちゃった。さて何をしよう!つまらない夫から逃れて毎日夜な夜な楽しく男と過ごしてどんちゃん騒ぎに甘いスウィーツ平らげておめかしして外に出よう。さて、14歳から24歳になった女。不幸のどん底。人生真っ暗。病院を訴える。よく言われる、精神の発達の段階。それが果たして発達なのか、ある年齢にみられる症候に至る段階なのかしれない。健全な男女は、おそらくビッグネームに耐えきれずに怪奇的な殺陣も起こしかねない。一番難しいのは、誰かの用意したキャラを被り続けること。自分はどうだ?社会がそんなに怖いか。日本人は、あいにく日本でしか生きられない。英語もろくにできないと決めてかかって、学ぼうともしない。仕事をできるだけ早く終わらせたいから、揉め事は少なくする代わりに酒の席で相手の悪口を大量生産する。こんな捻くれた性向を持った人間たちの集合体がこの島における社会で展開されている。別の視点から見れば、声が大きく悪口を堂々ということに潔さと捉えることでどうにか、この陰湿な者たちの集合体に清涼さを保たせている。

 24歳で人生がズタボロだと感じるのは、24歳にありがちな特有の将来への不安を、過去の後悔と結びつける非常に古典的な、そして因果的な見方をしているからだ。過去の自分の行いが未来の自分の生活に直結する。それは、一つの生き方だ。それを、ただ一つだと思えないので自らを追い詰め気分は滅入り、人生は文字どうりズタボロにするのだ。原因と結果のつながりを補強するために自らが犠牲になる道を選んでいる。原因も結果も、その因果関係から逃れる道を探すべきなのだ。自分は果たして過去の自分なのか。名前は変わらないが、細胞は入れ替わっているのは確かた。親は変わらないが、親の態度は変わり続けている。怒る時もあれば喜ぶ時もある。全てが絶対という世界は、行事の世界、儀式の世界だ。人間は、やっと、儀式から逃れて自分の孤独を楽しむ時間をもてるようになった。究極的に、寂しがりやなのだ。人は皆こじれている。それをまず自覚するがいい。自分が健常者だと思わぬほうがいい。西田幾多郎は、立派な哲学者であろうが、彼の人生は息子娘に先立たれる人生だった。立派な哲学であるのと、人生の豊かさは関係しない。いや、そうであってほしいという捻くれた、この風土に生まれた自分、そして、周りの反応から形成された自分という存在が、醜くてしょうがないのだ。果たして私は生きる資格があるのか。誰に対して?周囲は私はどう思うのか。見当がつく。もし、私がすばらしい印象であって他人もそれを求めるのなら私は一生そのキャラに甘んじて、自分で物事を考えることをせず常にキャンディーをあたえてくれる周囲の要望に沿って自らを、それだと思い込みすごし、偏見に満ち溢れ。嫌なところには近づかない視野狭窄にはまっていただろう。あいにく、周囲の人間は私に対いた期待はしていないようだから、それに甘んじて自分でも何もしないで流されるままに適当に気分よくいきている。どちらがいいのか、それは判別し難い。また、前者が良いとしてもそうは生きられないはずだ。それこそ苦痛だ。何がいいのか。人間は選択をして生きるという人たちもいるが、彼らにとっって選択が大きな意味を持っていたのだろう。あの時、あの選択をしなければ、という思いがひたすらに強いから、選択するのは大事であると思い込んでいるのだ。どちらに転んでも一生懸命に生きる人間こそすばらしいじゃないか。それで死んだって、それで華やいだとしてもね。つまりね、人間の生活はホームレスも金持ちもみんな一緒だってことだよ。違うのは、視線なんだ。他者から向けられる視線。ホームレスには軽蔑の、金持ちには羨望の。それだけが違う。ホームレスは、このまま長生きだとか病気だとか気にもしない。散らかっているだとかもね。金持ちは毎日嘘ばかりついてつまらない集まりに参加して、結局は金のために働いている。時間的な余裕もなく。池にダンボールの住居を構えたホームレスのように、水面のキラキラをみることさえしない。歩きながら話、マウンティングに長け、酒を飲んではカラオケで騒音をまき散らす。それに群がる、女たち。股を開いて子供ができたら儲け物。働きもせずに子供の世話をして可愛いと絶叫し、インスタに写真を投稿する。すばらしい世界だ。これが俗なる世界か。俗というのは、なんとすばらしい世界なのだろう。

 僕はね、散々こういうことができない人なんだ。相手を騙すのも面倒。生きるのができないんだ。金なんてあるに越したことはない。得た経験がないから喜びもない。時間を拘束されて生きるのこそ辛い。適当に妄想して生きているほうが、現実社会で繰り広げられているであろう、おびただしい幼稚で稚拙なくらい妄想よりもいい。蓮の花が咲いた晴天に布団を敷いて眠っている。それが私の夢。