アウトプット

相手の視点に立ってみよう

足つぼマッサージは役に立つ。

それにしても文字が打ちづらすぎる。俺がいけないんだ、俺が。この観念がどうしても止まらない。後悔あるのみ。土下座してすみませんと謝ろうと言う気力もない。ただ、漠然と、自分という人間を不埒に扱ってくれる人のところへ赴くばかりだ。熱湯風呂に入れたり、崖から突き落として見たり、怪訝な顔をして見せてくれる人のところへ赴くのだ。周囲の視線というのが伝わる。うなぎのようにヌルヌルしていて耐え難い。一体全体どうしてこうなってしまったのだろうと原因を探って見たところで出てくるのはガラクタで、さらら一つ一つを集めて適切に配置し組み立てるような果てしない作業をしているようだ。いろんな人間のいろんな人生をみたとて何になる。それがいいたいのだ。自分にとって最適な人生とは思う?そういう考えがないことが幸せなんだろうと思わないでもないないが、コンピュータに慣れきった私たちの思考の形態は、それに寄せてきているのでどうしても効率的なことを追求し、人類があっとそうであるように、全く不快な気持ちで負の感情を大量に生産しながら、効率的に生きているように仕向けられる。およそ、何かを得たいという気持ちほど煩わしいものはない!何かを得なくては、一人前の人間ではなく、何かを得ることで社会に参加できるような、そう言った思考は苦しい。消費社会のモデルが、一定の行事に沿って毎年遂行され、年末になると帰省ラッシュで混んでみたり、オリンピックがはじまるとテレビは運動ばかり流す。どうも世の中はだらけきっている。精神がだらけ、肉体は尚一層だらけきっている。だから、ダメなのだ。ダメなのだ。否定すべきは、私自身であると同時に私が居座る環境であろう。そして、私という存在自体を捨て去ってしまいたい。では、だれが考えるのか?自分なしに?という問いに対して、私自身がいなくなるというあり得ない想定の意味するところは一体どこにあるのだろうか?