アウトプット

相手の視点に立ってみよう

アウトプットの本来の趣旨

 いつの日か忘れていたのかもしれない。このブログは私が気持ちよく書くために開設されているのだ。誰のためでもない。まして、絶対に私のためではないのだ。なぜならば、私が書くことで私が得る利益は何一つない、ということになっているからだ。商業分が繁茂するよのウェブ界隈において、ここまで徹底的に自分に関わることだけを書いていくのは至難の技である。もしくは、単に私は商品を説明するのができない無能なのかもしれない。どちらにしろ、自分を無能だと思うことの利益を優先したい。なぜならば、世の中にはあまりにも知ったかぶりをしている人間が多すぎるからだ。確かに、世の中は秩序の幻想の中に構築されているのだから、知ることなぞそもそもできないのだ。しかし、そのネットワークに拘束されている自分がわからないのはもどかしい。どちらにせよ、世間を悪く言うつもりはない。労働している人に悪口を書きたくない。皆、金を得るために嘘ついてなぞと、考えたくはないのだ。そして、それをあながち心理だとも思っていない。いらないものを買い、いらないもののために働き、そのいらないものを入らないと言わずに貪欲なまでに追及する愚かさが消費社会の実態なのだとしたら。私はすこしもこの社会をいいとは思わない。しかし、他にいい社会があった場合それが悪くなってしまう危険性もあるわけだ。この世界という時、私たちはいくつの世界があるのか。相対的なはずだが、絶対的な世界観は人々の幻想が作り出した世界だ。そこにアクセスするのかしないのかの判断は、生まれ育った環境によるところが多いのであろう。唯一変わらないのが言語であるのだから、言葉は大切に扱わなくちゃならない。特に、人間は言葉を話す生き物だ。耳も目も聞こえな人は人間なのか。人間だが、あらゆる罪から逃れている。欲望を巻き起こすこともなければの話であるのだが。

 情熱はほとばしり。狂気である。人間は狂気なる生き物である。その自覚なくして宗教も、法律のも成立しない。国会も不要、警察も不要なのだ。つまり、人間は狂気に陥る。それがスタンダード。だから、己の狂気を自覚すればいいのだ。また、利用しなくちゃならぬ。どうしてもパンツが盗みたい奴がいる。もし野放しにすれば、取り締まる法律がなければ、女がパンツ泥棒に恐怖してしまい、世の男性は嫌われるであろう。守られる法益と、守るべき法益。つまり、熟慮に熟慮を重ねて、推論ではなく、結果ありきで・・・。

 このような思考は、私を憂鬱にさせる。すべて仕込まれていて、私はただ、それを徐々に明かされていくだけなのだ。どこにも解かれない謎があるとすれば、物理や数学の世界だろうけれども、私はそちらは方面と関わりがない。ということは、もはやその時点で自由ではないでないか。自由であることは、義務がないこと。ということは、数学にとらわれないのもまた自由なのかもしれない。義務が発生しなのので責任を逃れることはできても、心理的な、つまり法律的な義務を成立する人間の感情なりが働きだす。だから、完全な自由はないのだろう。また、義務を愛する人もいるのだ。義務が果たされて初めて世の中が平和になると信じる人間だ。どうして、親孝行しなくちゃならないというのだろう。私が親孝行をしないと思っているからなのだ。どうして、君が好きだと嘘をつかなくちゃならないのだろう。どれだけ、嘘をつけるのか比べているようだ。どうして、私は生きているのだろう。ただ、細胞が朽ち果てるのを待っているだけだというのに。どこに真実があるのだろう、偽りの中にあるのなら、偽りの逆は真実なのであろう。それならば、真実を探すのは容易だが、どちらが、嘘でどちらが真実か不明になってしまう。

 僕は死にたいのか?

僕はもっといい人になりたい。いい人になっていい人と言われたい。それだけだ。いい人はいい人。