アウトプット

相手の視点に立ってみよう

対象の喪失

 オモチャが無くなってしまった。私のおもちゃはどこに行ってしまったのだろうか。決して見つかることがないのか。そんなことはない。青い鳥のように自分がおもちゃをもっているのに気付かないだけなのだ。それだけ私の感覚は鈍くなっているようだ。年のせいだと言われても、自分でそうだと確信しても、認めたくないのは事実である。つまりは、私は年のために今下り道を歩もうとしているにもかかわらずこれからもっと苦労がたくさんあると大人たちに脅されて生きてきたので何が楽しいのかわからずに今日までぼーっと生きているのだ。じいさんばあさんの人生訓は全く役に立たない代物だ。

 と書いたところで、申し訳ない気持ちになる。いや、そういう気持ちになろうとしている自分がいる。私はちっとも老人に敬礼を払っていない人物であるように思われるのが心外なのである。私は老人を敬っているし、無意識的にはその代償として甘い果実を欲していることに間違いはないのだ。可愛い孫ほど用心するべきだと言ってみたところでこの世は地獄である。可愛くない孫は可愛くないままだ。

 そこで、私は提案するべきことが何もないことに気がついた。世の中無駄で出来上がっている。高速道路なんてなくても生きていける。無駄である。車なくても生きていける。無駄である。本当に大事な食についての知識はないままに生きている。生きることがステータシの獲得とマウンティングと、皆と違っていることを未だに素敵だと考えることのできるウスラボケのためにこの世の中が回っている考える私自身がもう古臭いのだと考えるように最近なってきたのだ。

 これは退化である。退化の改心である。最悪な結末に落ち込む可能性がある。恐れがない限りゆとりも生まれないのだ。これに気がついて仕舞えばいいのだろうか。つまりは、どんな世界も生き抜くことができるという意味になる。どうしてだろうか。世界は私から遠のいていく。素晴らしい世界だ。何か意味あることを言いたくても私は役に立たないのだ。自分を下に見ている。その視点は誰の視点か。勝手に私の代わりに喋ってくれる人がいる。それは私ではなく環境であり、空気だ。空気を読むことばかりしていたら自分がみすぼらしくなってしまった。それを撥ね退けるためにするべき努力は全て無駄のように思われる。

 つまりは、徹底してアホになりきることなのかもしれない。そうでなくちゃ、私はちっとも自分を守ってやることができないんだ。