アウトプット

相手の視点に立ってみよう

毎日が

 世界が言語に覆われていたとして、語らう仲間もいない僕は一人ここに書き続ける。どうして、言葉は秩序を形成するのか。そもそも互いに分かり合えないのだ。私の食べたりんごの美味しさは相手には決して伝わりもしないのだから。おいしい、といえば伝わるけれども、それは約束事でしかない。

 つまり、本当のところは決して分かり合えないはずなのだ。しかし、約束事を設ければ分かり合えたこととみなすことができるに過ぎないんだ。

 例えば、思っていることが少しだけマッチングしてみたりしてね。

 偶然といえば偶然だけど、必然だといえなくもない。だって、マッチングしたんだから。

 と、もっと僕は考えなくちゃならない。僕の心を奪うのは一体何者だろう。それが現れてくるのが楽しみだ。決して欲望の消費者になるな。周囲が楽しいから楽しいという状況に身を投じて甘んじるな。それだけが、少しはマシな生き方だ。皆が美味しいといえば美味しいと言い。かわいいといえばかわいいという。女は自己欺瞞的だ。どうしても、自分が分かり合えている証拠が欲しいのだ。しかし、女は天才だ。それがまやかしであるのを十分に知っているのだから。男はなかなかわからない。規範意識に掴まれて女たちのように、世界がなんちゃってという感覚で出来上がっているのをわからない。だから、男は人と打ち解け合うのに時間がかかるし変なこだわりを持っているのでめんどくさいのだ。男自身もめんどくさいと思っているのだが、なかなか自分からその慣習を投げ捨てる事ができないでいるのが実情であろう。男女に違いはあるけれども、男の間でも違いがある。それを認めていけば、世界はもっと多様性に満ちてくる。挙げ句の果てには受け切れないめまぐるしい野生の森林の繁茂に体系づけられない思考が出来上がれば、人間は一体どうなってしまうのか。ミシェルフーコーの人間は、知の枠組みの中で現れては消える、何事もと語っている。人間も消えるのだ。もちろん生身の人間は消えないであろう。かつてアメリカ人が、アフリカ人を奴隷にしたように、アメリカ人権宣言の人間に、黒人は当然人間と見なされていなかったように。奴隷が人間となり、今やたいていの人が人間となり、そして、皆が人間でなくなっていく。システムのために日夜、朝早くの叩き起こされて、夜には眠いのに叩き起こされて制度の維持に翻弄されている。人間の生活はロボットのために生きているようなものだ。ロボットがそのうち人間を排除する日も近いであろう。今や、スマホを使わなければラインというサービスが使えないように、すでにスマホという機械によって老人はサービスを享受できない事態が発生しているとも言えるではないか。どうしたことか、哀れな老人たち。落葉の下に埋もれた虫けらが、来るべく冬を恐れて木枯らしの中歩いていく。果たして今年は越冬できるだろうか。そびえる長方形のビルの上にたなびく雲が予感させる冬の寒さは、虫けらたちを戦慄させ落葉の下に隠れさせるだけの恐怖を与えるのには十分であったろうか。そして、虫けらたちは死んでしまったのだ。死んだら全ておしまいというのも、死んだら何も人間的な生活はできなくなってしまう。残念なことだ。しかし、これまで人間らしいことをしてきただろうか。顔はむすっとして、機嫌が悪そうな顔をして生きてきたではないか。それが人間であるならば、生きるというのは苦しいに決まっている。たとえ、にこにこ愛想笑いしていても顔の筋肉が引き攣っておかしくなるのは必須なのだから。どうしてだろう。人と人が会話しなくなったのも、そのせいなのかもしれない。青臭い議論が嫌われて、自分たちは黙っておけば利益になると若者たちは老人化していく。なんという本末転倒が現在この日本で起こっているのだろうか。若者たちは不平以外の討論の仕方を学ぶべきなのではないだろうか。来る、バカのために。必ず哲学は復活する。