アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ゲームの面白くなさ

 なぜテレビゲームは面白くないのか。与えられた物語を作業的にこなしていくことへの抵抗を自分に感じるのだ。物語はすでに決められている決定論に加えて、リアルな世界での違和感がゲームにはある。ゲーム好きは究極に現実に対して現実感を持っている人間が好きになる遊びなのであろう。現実世界を強固な物体として捉えて日々の残酷なニュースに一喜一憂できる単純素朴な人間がゲームに向いている。私はうすらバカなのでこの世の方がゲームよりも面白いのだ。

 ここに賛否両論もない。ただ、ゲームよりも楽しいことを私は知っているという感覚があるのだ。ゲームで時間を過ごすよりも、万葉集を読めるようになった方がなんて気持ちがいいんだということを知っているのだ。

 子供はゲームが好きだ。彼らは大人の隠微する性的な世界を想像力で満たそうとする営みに疲れ果てている。子供もセックスをすれば大人しくなるのだ。私たち金持ちの秩序だった先進国に比べて、男尊女卑の風潮が色濃く残る封建的な発展途上国に性暴力が多い印象があるのは、セックスを現実のはけ口にしていると勘違いしているからだ。実際は、セックスを最も性暴力的なのはプレイという遊びで無効化された先進諸国のセックスであろう。さらには、男尊女卑は隠され男はやはり男という地位に甘んじて女を見下し力で脅すという所作を見知らぬうちにしているのに驚かされる。それを批判されても本能であるから仕方がない、女が生理が来て月に一度血だらけになるのがしょうがないという理由と同じだと言い張る。 

 私はこの点において男も女も本能の存在を信じている点において、思考停止しているように思われる。本能とは一体なんだと、問い詰めればお腹が空いたらご飯を食べてということになる。お腹が空かなくても人間は我慢ができる。だから、本能はがまんできるはずだ。生死を賭けた戦いにおいて人間は現実世界から去るためにあえて本能とやら、闘争心とやらを棄て去り死地に向かうことがあり得るのである。だから、本能というのはまやかしに過ぎず、適時便宜に使われる皆が納得するように習慣化された理由でしかない。

 ゲームにおいて私は人を殺すという本能があるのか確かめてみたがあるはずがなかった。すでに憎しみは、別の形に変えてしまった。相手を憎むということのをしないように律してきた。そして、もしどうしても相手が理不尽であるならばそこを去るようにした。争うことはない。相手はいつかもっと巨大な他人にぶつかって自我が崩壊するだろう。その時、わかるであろう。何も、私がすることはないのだ。

 無責任だというだろう。眼の前で人が殺されても私はちっとも構わない。それが無差別殺人であるかどうかなど眼の前で起こっても分かり得ない。分かり得ないことに逃口の口実を見つけて他人に対して不感症になる権利を現代人は手に入れたのだと思う。

 同時に、人が他人のためになす行為がいかにその人自身を輝かせるのかも私は感じてきた。人間同士が、互いに、特に大好きな人に対して行う行為は非常に力を持っている。だから、莫大な費用をかけて結婚式をするのだ。決して、合理的ではない人間は好きな人間に対して起こり得る。一方で、自分を他者化した人間は自分に対して金をかけ、ナルシスティックに振る舞うであろう。その匂いに気がついた女たちは、ナルシストの懐を狙うためにイージーゲームを始める。かっこいいとご飯を食べている時も、寝ている時も、歩いている時も、トイレから出てきた時も、そんな顔を女がしていれば、ころっと男は自分の自尊心が確固たる地位を築いていると実感するのである。そのためにはどうしても、美人でなくてはならない。なぜなら、ナルシスティックな男にとって女はアクセサリーなんだから。

 人間という概念はいずれなくなるであろう。ロボットがホームレスよりも市民権を得るのは必須の出来事だ。人生にクリアはない。クリアというのは私には必要ない。ただ、人と同じように考えるのが嫌いなだけだ。なぜなら、私が必要とされるために他人の承認が必要で、他人の承認を得るためにはまずは、他人の気持ちに寄り添うという手段と、他人からこいつは頭がおかしいという非現実的な人格プランが用意されている。共感と、変人が周囲の人々を自由にするのだ。

 人間たちはハイエナのように、怒りの場所を探し求めている。君が、その怒りの場所となれ。タクシーに乗りもしないのに手を上げて止まるところを逃げそれをツイッターにあげるだとか、ハロウィンで男の股間を蹴り上げる姿を醸すだとか、そうすれば、ツイッターに救う物を考えることができない人たちが一斉に押し寄せてきてありがたく説教してくれるのだ。自分が不快に思ったことを一般化して、それにいいねがつく。承認されるのと同じだ。私は変人というより、うすらバカなくせに他人から褒められたり、いいねをされても何の感情もわかないのだ。ただ、数が増えていくのだけが楽しいのだ。なぜなら、私自身がいいねを適当に押しまくっているからだ。写真を見もしないでね。感情の整理という言葉が私には似合わない。感情は計画的に燃え上がらないことに女は欲情を感じて男と恋をする。成功したいのなら、捨て去ることだ。愛するべき人たちを。そして、自分の感情を。その他に、社会的な成功があるだろうか?

 今僕に大いに、嫌な欲望が沸き起こってきた。社会的なことが人生であるような人たち、つまり高級品を高級品と思い、また、結婚を素晴らしいと思い、また、規則正しく生きている人たちに対してネチネチと酒を飲んで説教されたいのだ。

 私は社会的な人々を非常に愛する。なぜなら、私自身それを強く望んでいるのに、一度も親近感がわいたこともなければ、社会的名声についてくるプライドが自分をいかに苦しめるのかを知っているから。

 それは、成功していない。本当の成功は名声さえも気にしない。その境地に達するためにわざわざ我慢して嫌なことをすることはない。我慢して何もしなければいい。それだけで、この現実の世界は変わり得るだろう。

 私は車が欲しい。