アウトプット

相手の視点に立ってみよう

つまり

 食べたら排泄するように、アウトプットしてクソ真面目な議論を投げ出してやりたい気持ちになる。これは文章への冒涜でもあろう。どうして、好き勝手に物を言っちゃいけないんだ。意味なんてない。意味もなく生まれて意味不明に死んでいくんだ。それを物語が過保護にも介入してきて人間の幸せのレールを作ってくれているんだ。そうでしかない。野放しにすれば、人間は秩序がないから、自制心がないから、仏に皆なれるわけじゃないから、壊れてしまう。すぐに死んでしまう。社会制度も、宗教も、健康法も、哲学も、皆、長生きするための術に過ぎないじゃないか。そして、長生きする理由があるのだろうかという疑問が今、あるのだろう。今すぐに死んでしまっても全く後悔がないのは他者がいないからだ。人間にとって他者は全ての事物であるが、限定して言えば人間にとって人間は強力な他者で非常に不愉快極まりない存在なのだ。かといって、自分が生きていればそれでいいというわけでもない。悲しい現実だ。私は死に値する。これは私が考えているのではないこともまた確かなのだ。では、一体どうすればいいのか。おかしいのか、私はおかしい。それは認める。認めるけれども、社会もまたおかしいのだ。構成員もまたおかしいのだ。自分の意見が言えないのは村八分を恐れているからだ。自分は存在してはならない。自分は抑圧されていなくちゃならない。その抑圧をどう処理すればいいのかが問題なのだ。どうすればいいだろう。どうすれば生きながら死ねるだろうか。案外、通勤電車に乗っている死んだ目のサラリーマンは死にながら生きているのだから、ひょっとすれば案外幸せなのかもしれない。タイから帰ってきた後日本人を見ると顔が死んでいる。喜びがまるでないようだ。喜んでいても嘘のようだ。それでも、幸せに生きている。日本人をめちゃくちゃに上げまくっているのも、日本人ががむしゃらに戦争に突入して惨敗して表面的にはいい負け方をしてアメリカが助けてくれたと思えるのも、嘘で、本当はアメリカの言いなりになってお金を出したり、ゴミを買ってはゴミ箱に捨てる作業を延々とやらされて、その時代に生きている老人たちがわんさかいるこの国で、若者はそもそも力がなく、性欲だけみなぎり、力は金だと言わんばかりの世の中になった。それはそれで幸せに違いないのだ。殴り合って常にビクビクして物を所有する幸せは、不愉快な思いをするのだから。