アウトプット

相手の視点に立ってみよう

メディアの効能

 断言させていただきたいのだ。メディアは君に幸福と不幸を植え付ける。しかも、立派な体型をしている。納得できるのは、君がテレビを見すぎているからなのだ。人々の集合的な意識の了解の上で成立する常識なるものがテレビにおいて忠実に展開されているのか不明であるが、私は思うのだ、飛躍こそ人間の思考の喜びではないかと。

 確かに、論証を重ねた研究も意味があるのだろう。世界は、資料を積み上げていけばそれなりに言い訳の効く定義を見出すことができるであろう。問題は、人間の直感がそれを受け入れるわけではないということだ。目の前の人間が極悪非道であったとしても直ちに死刑にするわけがない。それは国家のやるべきことであると、研究しなくては論理が見出せないとは、人間は判断を遅らせまくって一体脳みそはどこにあるというのか。脳という欠陥だらけの一生懸命な細胞が、気持ちい世界を作るために今私の首の上に乗っかっていると信じるならば、嫌なことは今すぐにやめたら良いのだ。それができないのは、体という最も強固で主張の強い完全な臓器が断固拒否するからなのだ。

 臓器の目的は唯一、臓器の維持である。脳みそは、完全に自分を殺すことができるが意識によって食い止められる。がん細胞は無理であろう。完璧にあっち側の論理、運命によって定められている。

 どうして僕は退屈な記事ばかり書いているのか。世の中のためになるような記事なんてちっとも書きたくない。論証がしっかりしているから美しいという文章はあるかもしれない。しかし、完璧な論証は存在しない。完璧を求めるならば科学になる。科学のみ人間を裏切らない。そう信じているが、科学さえ私という個人が生きている時間の間のみ通用する普遍性しか持ち得ないとするならば、私という視点によってすべて決まる主観哲学の方がよほど真理ではなかろうか。日本人の多くは、客観的であるのは不可能で必ず自分を、常識を客観的だと信じる主観に目を向けようとはしない。それをすれば、精神的な安定は崩壊するだろうから。この逃げられない、海に囲われた絶壁の島で、海面に叩きつけられるよりも嘘を認め、共通認識を持ち続けることで維持されてきた共同体のみが日本人であり、個人としての日本人は存在しえないのだ。反抗という態度抜きにしては。

 今現在、長いものに巻かれろという思想が蔓延している。長いものに巻かれるのは結構である。美徳は失われた。だから、だらしなく生きている人たちが沢山いる。私こそ最強の差別意識を持った人間かもしれない。しかし、こんな人間がいないと堕落し続ける社会に美しさはない。現在美しいものなぞ一つもない。イケメンも金がなければ価値がない。

 不安と対面せずに生きることに終始して、あるいは不安から逃げることでなんとか生き延びている現代の日本人たちは余裕はない、オリジナルもないと批判するのも非常に辛辣であることは間違いない。風土が、受け付けなくなっているのだ。。。

 寛容の精神を人々はなぜ持てないでいるのだろうか。なぜ、他人の失敗を哀れに思わないのか。個人的な幸福は得たかもしれない。好きなゲームができる、本が読める。しかし、共同体では互いに偏屈な常識を持って生きている。ああ、この国が崩壊し始めるのは仕方がない。国の概念も、やっと今更気づき始めた有様だ。国を経営するためにどうするのか、生活のレベルが落とせないのに、生産性は大したことなく働きづめて無理している。幸せのない国。

 この世からテレビがなくなれば、いいのに。