アウトプット

相手の視点に立ってみよう

関係性

 広大な無味乾燥な空間に文字を書いているような感覚でいる。読み手もいない。加えて果たすべき義務が何も感じられないのだ。責務がないので自由に物を言うが実行するのかしないのかの約束は果たされないままだ。結局は信頼を失い言葉も失う悲惨な結果に成り果ててしまうのだ。

 私の文章の悪さがひどく目立つ。記憶力が悪くなっているのも一つ理由に掲げられる。確かに、私はボケた。しかし、それでもなお書きたくてしょうがない。問題は、書いている時に自分でも思ってもいないことが書けたと言う感覚がないのだ。私は、普段何も考えないで生きている。

 周囲の環境はノイズにしか聞こえないのだ。美しいはずの鳥のさえずりも、それを美しいと思う人の気持ちを受け入れたくないほどに頑なになった私の心である。何者の感情も受け入れないで、自分の感情なども手やしないので無味乾燥な文章が出来上がるのである。

 しかし、情緒的な文章の多さに閉口して世の中の感動的な出来事を斜めに見ているだけかもしれないのだ。直接に感情を受け取る人たちは確かに得をするかもしれないが、普段苦しくて仕方がないはずである。それを修行というのなら、私は修行を終えているのかもしれない。

 私は、小説家にもなれない。なれない、と書くくらい受動的なのだ。決してならないであろう。しかし、ずっと書いていたい。病的な自分の考えをカルテとして保存しておきたいのだ。いずれ失われるであろう今の瞬間の自分を愛しすぎているからなのか。

 そのような問いへの答えに応答するほどに私は野暮ではないというすこしの自負がある。それも、一銭にもならない自負なので無駄だと思えるほどだ。また、そう信じている。

 世の人は一生社会という得体の知れない言語空間の外に出ることがないのであろう。社会という場所において自分がただの社会的な存在以上の何者かであることを自覚する機会は非常に少ないように思われる。社会的であるがゆえに精神的な安定を享受している大半の善良な人たちが存在するとしたら、彼らは情緒不安定の精神疾患持ちの狂人のようだ。

 私は何も求めたくないことを求める。今を満足して生きられることを超える知恵はない。株で儲ける知恵も、起業して金儲けをする魅力的なはずの知恵も、苦しみの種でしかない。

 そして、私は世の人の承認を求めることをやめてしまいたい。そうすれば、私はひとりでに泳いでいける。流れてどこに着くとしても自分を愛せるのならば、素晴らしい知識である。

 しかし、世の多くの人は他人の価値観を自己の価値観として内面化する。他人の価値観の表明が言語活動で行われ、言語を媒介に価値観を内面化して行動することで、奪い合いが生じる。

 私に足りないのは、足りないと思う気持ちであるようだ。今自分が何も書く材料がないと嘆く時、私は時間を無駄に過ごして捨ててしまっているのだ。無駄に過ごした時間を取り戻すためにゲームをしてみても、虚空は埋まらない。だから、外を出てたくさんお話をしたいのに、町の人は携帯電話をいじってばかりでちっとも話し相手になってくれない。

 生きている人間の話が全て重すぎるのだ。それに耐えきれない現代人は、生きることがますます苦しくなっていくだろうと考えるのは至極当然であるように思われる。

 傷つけ!と私が自らを鼓舞する際に時々使う。

 要は、私、さえ存在しないのだ。加えて言えば、他者さえ存在しないのだ。私と他者は実体がない。しかし、実体のない者同士が繋がる時に関係が成り立つ。関係性のもつ役割が、私であり、他者である。

 金持ちは、貧乏人がいて成り立つ。学者も、政治家も、運送屋も、店員もそうだ。関係性が全てだ。友達だから死ぬ気で助けてやるのだ。君だからじゃないのだ。