アウトプット

相手の視点に立ってみよう

日本人のニュース好き

 日本語で書かれたニュースは読むに値しない。特にネットの記事は表現が拙く主題もゴシップが中心で私の人生に微塵も関係しない。確かに、仏教的な観点から考えれば人々はそれぞれ縁起によって成り立っている。だが、芸能人が薬物で捕まっただとか、ある人の得意な行為が普段意識されないダークな箇所で世に蔓延しているのではないかという考えを意図的に感じる。芸能人がうつ病になれば、一般人もうつ病になる。広告だってそうじゃないか。芸能人がうんこを食べれば、庶民もうんこを食べ始めるのが日本だ。下品な表現になってしまった。しかし、これがこの国におけるメディアの役割なのだ。つまり、商品を売ることに重きを置いているがために純粋なエンターテイメントがなくなりつつある。娯楽を楽しむだけの余裕がなくなってしまったのだろうか。自由な人が嫌われる田舎にビルが建っただけの世界が東京なのかもしれない。金があれば人と会わずに済む。素晴らしい。しかし、金がないから人の愚痴を聞いて自分も同じように真似をして愚痴を吐く。ラップが流行したのもそういうところにあるのだろう。看護婦は稼ぎはいいが、夜勤が最悪だ。昼間の娼婦だ。ホテルの従業員はシーツを相手に部屋を整えるが、看護婦は人間を調える。一見、素晴らしいと人々が賞賛するのは自分には到底できない仕事をやり遂げているからであり、肩代わりしてやろうとは決して思わないことに投げかける。

 僕にはニュースが必要ないのだ。ニュースは君たちに植え付ける。流行、思想、どこへいったらいいのか、何を買えばいいのか、どう生きればいいのかさえも。これらは本当に必要なことだろうか。和をもって尊しとなす、本当に素晴らしい言葉だ。もし、うんこを食べ始めた友達がいたら、俺も食べてやらなくちゃ和を保っているとは認められないだろう。

 君は極端だというかもしれない。うんこを食べる友達なんていない。確かにそんな友達はいない。しかし、うんこをひねり出す気持ちよさよりはるかに劣った、愚痴、疲れた顔、想像力のないロボットと過ごす休日は、不快である。人目を気にする日本人は架空の相手に対して自由に想像力を働かせ中国の侵略に怯えているのだ。実に、日本人的な発想である。空想に怯えて、現実から逃れ空想的に勝とうとする防衛機制を日本人はいつ見につけたのかについて非常に興味がある。

 ニュースは必要ないのだ。一度毒抜きにニュースを見ないようにしたら私の視界は広がったように感じられた。もちろん、180度くらいしか見えないけれど、眼中に多くのガラクタが映るようになったような気もした。

 とにかく、ニュースは見ない。